宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

『判断力批判』を読む 9)合目的性

 あることを、合目的だと私たちが言う場合、目的があってそれに合った行動がとられるとき、と考えていいと思います。目的には、その設定者がいます。

 しかし、判断力の原理としての合目的性とは、そのような設定者を想定していません。形式として、目的に適った動きや形態が実現しているとき、自然の合目的性、と言われます。これは、判断力の持つ性質であって、自然そのものが目的を生み出すとは考えません。反省的判断力は「自分で自分に法則を当てるだけであって、自然に法則を与えるのではない」(判断力批判(上)』38頁)と言われます。そして、この形式の合目的性と、実践的合目的性は、分けて考えなければならないと言われています。

要するに我々は〔自然の合目的性という〕この概念を用いて、自然における現象の結合――換言すれば、経験的〔自然〕法則に従って与えられているところの結合に関して、自然の所産に反省を施すことができるだけである。なおこの概念は、実践的合目的性(人間の技術における、或は道徳における合目的性)との類比に従って考えられるにせよ、しかしこれとはまったく異なるものである。(判断力批判(上)』39頁

 石川文康さんによると、判断力の原理である「合目的性」とは目的設定者を探さない考え方を取るということで、目的設定した意志があるとすると、仮象に陥ります。合目的性を客観的に認めても、「あたかもあるかのように見える」で止めます。

仮象は判断の主観的根拠を客観的根拠と混同するところに生じたが、反省的判断力の原理である合目的性は、あくまでも判断力自身の主観的原理だからである。(石川文康『カント入門』ちくま新書、1995年、210頁

 ではなぜそのような「自然の合目的性」という捉え方が必要なのでしょうか。超感性界と感性界を統一するため、ということのようです。感性界とは現象界の事です。この世界は自然因果律によって規定されています。原因から結果への連鎖が続く世界です。これに対して、超感性界は物自体の世界です。人間の認識を超えています。ただ、現象界に対して物自体を想定しないと、現象が仮象と何ら変わらなくなります。その意味で、カントは物自体という概念を出しました。

 この物自体の世界、超感性界は自由の原因性の世界です。私たちは理性を通して、究極目的として道徳法則をこの世界から受け取ります。自由が存在しないなら、道徳は意味がありません。その意味で、「自由は道徳法則の存在根拠」と言われます。そして、実際に道徳が存在するということは、人間に自由が存在することを認識させます。ですから、「道徳法則は自由の認識根拠」と言われます。

 この感性界と超感性界を橋渡しするものが、「自然の合目的性」という考え方です。超感性界の自由意志による道徳法則(究極目的)が実現される世界は感性界です。

即ち自由概念は、その法則によって課せられた目的を感覚界において実現するように定められているのである。従ってまた自然は、その形式の合目的性が自由の法則に従って自然において実現さるべき目的の可能と少なくとも一致調和する、というふうに考えられ得ねばならない。してみると自然の根底に存する超感性的なものと、自由概念が実践的なものとして含んでいるところのものとの統一の根拠が必ずや存しなければならない。(判断力批判(上)』序Ⅱ、29‐30頁

 超感性界と感性界は別原理ですが、超感性界から感性界への働きかけがないと道徳は実践されません。とするなら、「自由概念が何らかの形で自然概念に対して影響を与えることが可能でなければならない」(岩崎武雄『カント』246頁)と考える必要があります。

自然界がその超感性的な根源において自由の法則と調和し得るごとく合目的性を持っているとするならば、少なくとも自然界の法則が自由の法則と矛盾しないということが可能となるであろう。(岩崎武雄『カント』246-247頁

 自然の根底に目的が潜んでいると考えられれば、自然は合目的性を持ち、自由の法則と調和し得る、ということのようです。そして、この自然の合目的性を想定できるのが、判断力だということです。うーん、今一つ、分かったようで分からないです。この試みは成功しているのか否か。

          2023年11月23日ドクターヘリの着陸

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