宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

子どもの絵

 子どもの絵って、どうやって描いているのだろう、と思います。絵本の影響なのでしょうか。今日、たまたま見た小学一年生が書いた人の顔を見て、息子が幼稚園の年長さんか小学校の低学年で描いた時の絵を思い出して探しました。

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 今日見た絵も、同じような書き方でした。これって見たもののイメージを描いているわけですよね。写生ではないです。今、私が誰かを描くとしてどうするか? 写真を参考にして描くかな。子どもたちが描く絵は、知覚の前段階、感覚体験にもとづいているのでしょうか? 絵本の絵って、どこか同じ描き方だなぁと思います。

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            梅の木の下で休むおじさん

終活

 少し前から、年上の友人が「終活している」と言っていました。年賀状で、「今年が最後」という連絡をいただくことも増えました。そうかぁ、身の回りの整理しなければと思うようにはなっています。

 「終活」という言葉は、2009年に『週刊朝日』が連載を組んで以来、広く浸透したようです。私の場合は、身の回りの物品整理の段階ですが、いやぁ、確かにこれを残されたら、整理は大変。残されたものは、まぁ、どんどん捨てられるんだろうなぁ、とは思います。

 女性学を教えていたころの新聞記事の切り抜きを整理、というかほとんど捨てました。1990年代の日経新聞の記事が結構大量に在りました。鹿島敬さんが、編集局生活家庭部長をしていた頃でしょうか、女性労働問題をかなり取り上げていました。

 新聞記事の変遷も整理してみると面白いでしょうね。私が捨てられなくて残したのは、『フロイスの日本覚書』「第Ⅱ章 女声、その風采と衣服に関して」(中公新書)の部分のコピー。ヨーロッパの女性と日本の女性を比較する形で、書かれています。例えば、

1.ヨーロッパでは、未婚女性の最高の栄誉と財産は貞操であり、純潔が犯されないことである。日本の女性は処女の純潔をなんら重んじない。それを欠いても、栄誉も結婚(する資格)も失いはしない。

30.ヨーロッパでは夫婦間において財産は共有である。日本では、各々が自分のわけまえを所有しており、ときには妻が夫に高利で貸し付ける。

 ルイス・フロイスは、1532年、ポルトガルの首都リスボンに生まれています。彼は16歳でイエズス会に入会し、インドへ向かいました。1563年に来日して、信長の寵愛を受け、1585年に『日本覚書』を執筆しています。31歳で日本に来て、22年後に本を書いています。日本の女性に関する記述は、かなり正確ではないかと思いますが、ただその観察対象の範囲は限定されていたかもしれません。ヨーロッパと比較する形での叙述形式ですが、どうもヨーロッパの風習に関しては、16歳でインドへ派遣されているので、どの程度信憑性があるのか疑問視されています。

 読んでいる分には、ヨーロッパの女性より日本の女性の立場の強さが印象に残ります。

 こんなことしているので、終活の身辺整理は時間がかかりますね。

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      4月開校予定の小中一貫校「ひたちなか市立美乃浜学園

人間の尊厳と自立5.人間の尊厳の根拠

 「人間の尊厳と自立」という科目の成立を見てみると、法律に記載された(誠実義務)こと、というのが大きいようです。ではなぜそのような条文が出てきたのか。その背景には、施設における拘束等の問題もあるのではないかと思われます。これはまた別に考えていきたいと思います。それはそれとして、なぜ人間に尊厳があるのか、その根拠はどこにあるのか、は今一つはっきりしません。前提として人間の尊厳保持が、提示されています。

 なぜそのようなことに拘るのか。この問題は、「パーソン論」の問題とも重なってきます。パスカルは「人間は一本の葦にすぎない、自然の中でもいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である」(ラフュマ版200)として、人間の尊厳を考えることの中に見出しました。西洋思想の中で理性(考える能力)は、人間の証しとして捉えられてきたと言っていいと思います。カントは人格(自由意志)に人間の尊厳の根拠を見い出しました。カントの人格とは、理性によって道徳法則を自ら選択して、自律的・自立的に行為する存在のことです。

 では、これが、欠けていると思われる状態はどう捉えられるのか。さらに技術の進歩の中で、胚の問題や臓器移植等をどう扱うのか、ということも出てきています。出生後の人間を対象に限ったとしても、福祉を最も必要とする存在ほど、この人間の尊厳の規定からは外れます。幼児、老人(特に認知症状を呈する人)、障害者など。

 私の手元の教科書『新・介護福祉士養成講座1 人間の理解』(中央法規)では、生きていく中で、介護職の支援を受けることにもなるが、それは人間関係を基盤にする、というようなことで始まっています。そして次のように続きます。

 人間関係の構築には,現在の生活状況の理解はもとより,人間としての尊厳が保持され,社会の人々との人間的なコミュニケーションのもと,自立した豊かな生活を営みたいという人間の姿の真の理解から始まります。 (2頁)

  そして、その人間存在の尊さは理論や知識でなく、直接に感じ取るものだと言われています。しかしながら、この直接に感じ取るとはどのようなことを言っているのでしょうか。通常の「感じ取ること」を根拠にすることには危うさがあります。

 かつて、ある教え子が実習に出て、ぽろっと漏らした言葉があります。「先生、生きていても仕方ない人っていますよね」と。

 その学生は、寝たきりで自分では食事もとれない、言葉を発することもない利用者さんの姿に、ある意味衝撃を受けたようでした。人間の悲惨な状況に対面したとき、「生命への畏敬」という言葉がどれだけ響くのか。それを感じ取ることができないことを責めることは、無意味だと思います。

 私にもその言葉はショックでした。その学生には「安楽死を含めて生きること、死ぬことを考えることは必要だけど、現場では生きることの持つ可能性を信じてないと辛いよ」というようなことを言った気がします。

 倫理の言葉はお題目になっては意味がありません。しかし、「倫理の言葉に私たちの心が追い付かないこともある」というようなことも授業で言ったことを覚えています。(他人の感情に同調するという意味での)共感を倫理の基礎にはおけない、という点に私は同意しています。「人間の尊厳」の根拠は、言語化される必要があると思っています。そして、直接感じ取る、ということの意味がもっと明確にされる必要があるとも思います。

 現象学の視点を使うことで扱える問題なのかどうか。直接経験(主観的なもの)がもとになって私たちの客観世界が形成されるとして、この直接経験を知覚経験を超え出る領域にまで言えるのかどうか。生きている姿を直接「感じ取る」という直接経験はあるのでしょうか。この「感じ取る」は、「嫌なものを感じ取る」とか、「恐ろしいものを感じ取る」というような、すでに評価的なものを含んでいるのではないでしょうか。

 もう一つ、法律の条文では、人間の尊厳という表現が出てきていないことも注意点です。「自己の尊厳」(世界人権宣言)、「個人として尊重される」(日本国憲法第13条)、「個人の尊厳の保持」(社会福祉法)という表現で、人間の尊厳という言い方は見当たりません。しかし、日本国憲法は人間の尊厳という表現を使ってはいませんが、人間の尊厳を根拠としないと「基本的人権」は言えません。ここで語られている「個人」とは、これら基本的人権の保持者であり、その意味では尊厳を持つ人間としての個人と捉えられます。勝手気ままな個人の尊重や尊厳を意味するわけではないのです(この法律的解釈の部分は山崎将文「福祉における人間の尊厳―憲法学からのアプローチ―」(『憲法論叢18号』)を参考にさせていただきました)。

『反共感論』

 ポール・ブルームの『反共感論 社会はいかに判断を誤るか』(白揚社、2018年、原書版2016年)を読み始めました。ちょっとセンセーショナルな題名に足を止めたのと、私自身、共感とか思いやりが道徳にどういう役割を持っているのか、ずっと気になっていたためです。感情の役割については、戸田正直さんの『感情――人を動かしている適応プログラム』も気になっていますが、まずは共感について考えておこうと思います。

 共感については、「対人性反応性指標(IRI)」:共感力を客観的に測定するテスト、というものがあります。これは共感を4つの側面に分けています。最初の3つが情動的共感と言われます。①「共感的配慮」:他者の幸不幸に共感する気持ち、②「空想」:フィクションの人物に感情移入する傾向、③「個人的苦悩」:他者の不幸な境遇をわが身に置き換えて恐怖を感じる傾向、です。④「視点取得」:他者の立場に立って物事を自然に考えることができる、は認知的共感と言われます。

 ブルームがとりわけ問題視しているのが、情動的共感です。彼は用語の定義を巡る議論が嫌いだと言っていますが、自分の立場を明確にするために共感を次のように定義します。「他者の感情の反映(ミラーリング)という意味に言及する用語としては、『共感(empathy)』がベストだと考えている」(52頁)と。ブルームは、道徳の核にこのような感情の反映を持ってくることは危ないと批判するわけです。感情に引きずられて判断を誤る、ということを言います。しかし、道徳的判断の指針としてはふさわしくないが、動機付けに戦略的に動員できることには疑いを持たない、とも言います。

 認知的共感に関しても、道徳的判断の指針にはならないと主張します。認知的共感の有用性は否定しませんが、没道徳的な道具(ツール)だと言います。なぜなら、他者の気持ちがわかる悪人は始末に悪いからです。

他者の心を理解するという点では、いじめっ子は通常の子どもにまさる。人を嫌がらせるにはどうすればよいかをよく心得ているのだ。だからこそ実に効果的に他者をいじめられるのである。 (49頁)

 ブルームは最善の結果は理性に依拠することで得られると考えています。共感を否定するというのではなく、それの道徳との関係における位置づけを過大評価することへの批判と言えます。

 最初の辺りを読んだ限りでは、それほど極端な主張をしているとは思われません。道徳の核に共感を置くという議論自体、極端であって、その意味ではブルームは妥当な主張を展開している気がします。本の題名がセンセーショナルなだけで、どうも内容はそれほど驚かされるものではなさそうです。最後まで読んでみないと分からないかもしれませんが、共感に関して整理するにはいい機会かなと思います。

山百合の会

 月一回、数人で集まって花を生けています。先月は県独自の緊急事態宣言でお休みでした。23日午前零時をもって緊急事態宣言が解除され、今日は久しぶりに集まって、花を生けることができました。

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         桃、麦、レースフラワー、ラナンキュラス

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  桃と組み合わせる花材と生ける人が異なると微妙に異なる作品になります

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  2020年2月26日サンシュユ、トルコ桔梗、スイトピー、ゴッドセフィアナ

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2019年2月20日 桃、スイトピー、スプレーカーネーション、レースフラワー、ブルニア(緑の実物)、ゴッドセフィアナ
 斑入りの葉は、ゴッドセフィアナです。桃、スイトピーとレースフラワーはよく合います。ラナンキュラスは春の花ですが、レースフラワーと合わせると、色合いが素敵です。この時期のレースフラワーは、まだ温室栽培です。5月、6月の頃の花ですが、可憐でいて、合わせるもので華やかになります。ブルニアは個性的です。

 ラナンキュラスとトルコ桔梗はよく似ています。トルコ桔梗は通年手に入りますが、ラナンキュラスは春だけです。そして色も赤、黄色、オレンジとはっきりした色合いです。花は、ちょっとバラと似ています。ただ葉っぱは全然違っていて、細くしたイチョウの葉っぱのような、ふやかしたパセリのような、あまり綺麗ではありません。キンポウゲ科です。

 トルコ桔梗もバラとよく似ています。葉っぱを見るとやはり違いが分かります。それと花の付き方。トルコ桔梗は一本に花が幾つも付いています。リンドウ科です。

 それにしても、植物の名前って覚えられません。区別も難しいです。見ていると美しいのですが。

EBMの「エビデンス」とは?

 昨日は風は少しありましたが、暖かでした。今日はもっと気温が上がりました。今週の半ば以降はまた冬の寒さがぶり返し、風邪をひきやすいので気を付けてくださいと、昨日の天気予報で言っていました。

 さて、このところ考えていた科学的ということは、EBMの問題とも繋がっています。EBM(evidence-based medicine)は通常「根拠に基づく医療」と訳されます。この根拠は科学的根拠ですが、従来の医療は生理学的知見や医者の経験に基づいていました。これらは科学的根拠ではないのでしょうか。ここがずっと引っかかっていました。

 私たちは科学的というと、客観的で主観的思い込みではないと考えていると思います。この主観的と客観的という言葉自体にも注意が必要です。まず主観に関してもレベルがありますが、客観に関してもレベルがある。私たちがものを考えたり想像したり、見たり、聞いたり、つまり知覚するとき、私たちは主観を離れることは出来ません。その内容と区別して、働きそのものとしての主観は、まず確かに在ります。ここからしか私たちの「知る」という行為は始まりません。「我思う、ゆえに我在り」です。

 では、私たちの知ることの確実さの違いはどこから来るのか。現象学が問題にしたのが、この意識主観の経験の自明性のレベルでした。自明性の差が出てくるのは、直接経験か間接経験(伝聞・情報)かに寄ります。学問はすべて間接経験を含んでいます。その意味であらゆる学問は、疑うことが可能な部分を含むということです。

 「知ること」の基盤は「主観」です。主観と切り離された認識はあり得ない以上、認識の客観性にもレベルがあると言えます。科学的理論は客観的と通常思われています。しかし、例えば、同じ現象を理性的に観察(直接経験)しても、そこから導かれる仮説は異なります。その格好の例が、燃焼に関するフロギストン説と酸素説の対立です。観察と仮説との間には因果関係はない、観察する人の信念がその因果関係を提供すると考えられます。カントは『純粋理性批判』第2版序文で「コペルニクス的転回」に言及しています。

コペルニクスは、全星群が観察者のまわりを回転すると想定したのでは、天体の運行をうまく説明することができなかったので、観察者を回転させ、これに反して星を静止させたなら、もっとうまくゆかないかどうかを、こころみたのである。 (カント/原佑訳『純粋理性批判(上)』平凡社ライブラリー、48頁

  自然を知るために、仮説を立てて、実験的に自然に介入していく姿勢は、人間の側の必要性から始まります。自然そのものをありのままに認識するのが客観性という考え方は、近代において、人間の側の介入の仕方によって自然が見せる姿は異なる、と変わりました。カントは先の引用の少し前の部分で、「理性は、理性自身がその企画にしたがって産み出したものだけを洞察する」(前掲書、44頁)と言っています。

 EBMエビデンスのレベルというのも、その文脈で考えれば分かり易いです。エビデンスは臨床結果で得られた裏付けや証拠を根拠とする、ということです。そしてそれにはレベルがあります。「根拠」でもその信ぴょう性に強弱はありますが、臨床結果の知見重視の側面とランダム化比較試験や統計手法によって出来るだけバイアスを排していく信憑性のレベル付けの手法をいうときには、「エビデンス」という言葉を使った方が明確です。

 19世紀の科学では、「再現性」が重視されていました。それが20世紀後半の推計統計学の導入によって、医学・薬学・心理学・経済学など、複雑性や複合性を内包していて再現性が得にくい分野にも、科学的手法が使えるようになったようです。

 というわけで、EBMは「根拠に基づく医療」と訳すよりも、「エビデンスに基づく医療」とした方が誤解が少ないだろうと思われます。

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          2021年2月21日 一気に気温が上がって梅満開(千葉県)

介護福祉士実務者研修

 今日は、昨日の骨に染みるような寒さとは打って変わって、暖かでした。介護福祉士実務者研修のパンフレットを、ある研修実施機関に行ってもらってきました。以前にここで介護職初任者研修を受けましたが、かなりしっかりしたカリキュラムを組んでいました。

 実践に関する授業は学ぶもの多かったのですが、理論に関する授業では驚かされました。テキストはよく出来ていますが、授業で、そのテキストの文章にアンダーラインを引かされました。そして授業後提出のレポートは、それをくっ付けて論述すれば出来上がる仕組みになっていました。

 実務者研修では、自宅学習が10科目275時間あります。その科目自体は、国の指針に完全に合っています。スクーリングは61時間(9日)で、科目は介護過程Ⅲが45時間、医療的ケアが16時間です。医療的ケアでは、講義の後に筆記試験があり、それに合格しないと演習に進めません。この医療的ケアの演習には、DVD教材がついています。

 介護過程や医療的ケアに関しては、対面でないと難しいと思います。しかし、その他の部分の学習は自宅でテキストを使って自学自習して、課題をレポートします。自学自習でレポート提出という流れ、どうなるか想像できてしまいます。まさにポイントを覚える。介護福祉士の試験に合格したある人が、2カ月前から集中的に書いて覚えた、と言っていたことを思い出しました。

 仕事をしながらの実務者研修では、やはり受講期間4カ月中9日間のスクーリングがせいぜいだろうと思います。しかし、自分がやっていることを理論的な枠組みの中で捉え直すせっかくの機会なのに、これではあまり意味がない気がします。それぞれの分野の専門家の授業を聞く意味は、テキストをただ読むだけでは分からない文言の背景を知ることにあると思います。そして、もろもろの問題点を自問自答し、学び合う仲間の意見を聞いて考えることで、ただポイントを記憶するのではない学びが生じます。覚えるだけでは、はっきり言って使い物にはならない。

 「人間の尊厳と自立」の科目を履修しているはずなのに、「認知症の理解」の科目を履修しているはずなのに、認知症の方への対応が出来ていない、なんてことが起こります。道徳の注入主義を思い出してしまいました。どうしてこういうことが起こるのか。日常生活の支援という、自分の日常生活を、他者のそれに重ねてしまいがちな分野の問題なのかもしれません。

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                2月18日の午後

h-miya@concerto.plala.or.jp