宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

『判断力批判』を読む 23)美学的判断の快は形式的合目的性の意識

 朝晩はかなり涼しくなりましたが、日中の暑さは相変わらずです。

 以前『判断力批判』を概括したことで、全体のテーマが少し整理できました。

 判断力のアプリオリな原理は、なぜ合目的性なのか。自然を因果関係で読み解くことで、自然科学は発展しました。ガリレイの落体の法則、ニュートン力学など、目的を排除して自然を扱う態度がもたらしたとも言えます。この機械論的自然観に対して、自由意志の世界との繋がりを回復したいカントが導入した視点が、自然の「合目的性」でした。

 自然が自分自身を有機的に組織するというのは、機械論的自然観への批判として分かり易いです。これと趣味判断の合目的性がどうつながるのか。趣味判断の合目的性は、目的なき合目的性と言われます。

 合目的性は「目的に適っている」ということですが、目的を究極的原因と捉えることを拒否しています。生命体の各器官は生命維持に適った形態や働き方をしています。それを合目的性と捉えますが、誰かがそれら器官を「目的」に適うように作った(目的論)とは考えません。目的因の考え方を阻止するのが「合目的性」という原理で、「この原理によって目的論を批判し、新たな目的論の再編を図るのが、カント第三の批判書『判断力批判』である」(石川文康『カント入門』187‐188頁)ということでした。

 そして趣味判断の合目的性とは、適意(快)の存在から言われていました。「目的が適意の根拠と見なされるなら」(原典第2版34頁)、適意の存在は目的を想定させるというのです。しかし、美学的判断の快は、まったく観照的で関心を生み出しません。ですから、美学的判断の快は、認識能力(構想力と悟性)の調和的遊びの(実質的目的はない)形式的合目的性の意識そのものだと言われます。

 機械論的自然観に対して、究極原因をたてる目的論ではなく構想された目的論が合目的性を原理とする『判断力批判』であった、ということでしょうか。

 

     水戸市民会館屋上芝生庭園              日本庭園                     

『判断力批判』を読む 22)趣味判断「様態」:共通感ⅲ)

 台風の影響でしょうか、時折、サァーと小雨が降りました。風はあるのですが蒸し暑いです。

 美を判定する能力である趣味判断は、主観的判断ですが普遍妥当性を要求します。それはこの判断が、個人的関心と関りがないこと(無関心性)とその判断が認識の一般的在り様として、構想力と悟性が自由に戯れ快が生じるという表象作用の普遍性から普遍的伝達可能性が生じるからと言われます。そして認識構造に基づくこの普遍的伝達可能性は、さらに共通感によって補強されます。

 私たちはある種の判断において何かあるものを美と判断しますが、これは感情の判断であってかつ普遍的であることを要求します。ここに一種の共通感が前提されるというのです。

 我々は、ある種の判断によって何か或るものを美と断定する、そしておよそこの種の判断においては、ほかの人達が我々と異なる意見を持つことを許さない、それにも拘らず我々の判断は概念に基づくのではなくて、まったく我々の感情に基づいて行われるのである。そこで我々はこの感情を、個人的感情としてではなく共通的感情〔共通感〕として、かかる判断の根底に置くのである。ところでこのような共通感は、決して経験に基づいて設定され得るものではない。(判断力批判 上』135頁

 第四様式の適意『様態』の分析では、これ以上の根拠づけはなされていません。この共通感については、「第四〇節 一種の『共通感』としての趣味について」でもう少し詳述されています。

 カントの共通感覚の捉え方に関しては、ガダマーは主観主義化・脱政治化を批判し、アーレントは逆に政治哲学の可能性を引き出しています。城戸淳「共通感覚論ー共同性の感情的基礎のためにー」では、カントの共通感覚論を経験的次元における原理と捉えたことから生じた齟齬だと論じられています。城戸さんによれば、カントの共通感覚論に託された「人間共同性の超越論的な基礎づけという契機を見損なっている」(16頁)と言うのです。カント的にはこの読みに妥当性を感じます。

              2024年6月16日 磯崎海岸

天満宮社頭祭

 昨日は、天満宮社頭祭で山車が巡行しました。本祭り以外で、山車が湊の中をこれ程広範囲に回るのは初めてだったと思います。社頭祭(居祭り)は、神輿を出すだけで神輿の巡行を行わないので、風流物の巡行も行わないようです。

 調べていて分かったのは、茨城県教育庁「伝える、結ぶ、広がる❝茨城のおまつり❞(民俗文化財活性促進事業補助金)」の選定した五つのまつりの中に、「みなと八朔まつり」が入っていたことです。

 近世以前からの歴史を持ち、現在も継承されていることや構成要素に国・県指定又は国選択の無形民俗文化財を含むものであること、約1万人以上の入込客数があり、地域振興に役立っていることなどが選定基準として挙げられていました。そして、文化財保護を目的としたおまつりへの補助制度としては、全国で唯一、とありました。

 補助額500万円までだそうで、既に枠は取ってあるようです。補助対象経費と補助対象外経費が分けられています。直接的な宗教行為に関わる経費(玉串料、奉納費、しめ縄代など)や飲食代などは、補助対象にはなりません。祭りの経費で飲食代や酒代は結構大きいのではと思いますが、それは自分たちで出すようにということです。当たり前と言えば当り前です。山車保有町内、町印のみの町内では割当金が異なるようですが、それぞれが申請書を作成中とか。

 「みなと八朔まつり」の構成文化財は、六町目の獅子と元町のみろくです。これらは国選択の無形文化財です。昔、毎年祭りが行われていた頃、祭り好きだった伯母(故人)が「獅子とみろく」を特別視していましたが、聞いてもなぜなのかよく分かりませんでした。今回少し調べてみて、なるほどと思いました。神輿が最後に海に入るのも、菅原道真が海から来たと伝承されているからというのも、今回調べていて分かったことです。

 祭りを継承する意義を考えるいい機会だと思います。その意味でも、今回の「茨城のおまつり」に選ばれたことは、もっと広報されてもいいのではと思いました。

             2024.8.24 七町目の風流物と元町のみろく

響雅の演奏を聴く

 21日(水)の午後1時半から3時15分まで、堀川保育園ホールで「はまぎくカフェ」が開催され、「和太鼓クラブ 響雅」の演奏を楽しみました。体操をしてから、『パプリカ』の映像に合わせて私たちが歌いながら振りをつけましたが、それに響雅の指導者桜井先生が、和太鼓で生伴奏を付けてくれました。なかなか良かったです。

 演奏が始まると、和太鼓の音が身体に響いて来て、身体全体をかき回される感じでした。毎回、聴きながら思うのは、打ち手の動きの美しさです。今回も撥さばきも美しく、体幹がぶれることなく見事な振る舞いでした。

                  2024.8.21『祭祀の宴』

『判断力批判』を読む 21)趣味判断の「様態」:共通感ⅱ)

 判断の様相には、蓋然判断、実然判断、必然判断があります。共通感は、この必然判断の根拠として使われています。そもそも共通感or共通感覚とは何なのか。まずはその辺りをもう一度振り返ってみたいと思います。

 コモン・センスの常識という意味合いでの使い方は18世紀のイギリスで一般化しましたが、キケロなど古代ローマの古典に遡ることができます。これに対して、感覚の統合という意味は、見えにくくなっていますが、遡るとアリストテレスにあり、中世世界でもこの方の意味が主流でした。

 アリストテレスの共通感覚(センスス・コムニス、コイネ・アイステーシス)の考え方は、次のようなものです。私たちは何かを感じ取るとき、視覚同士や味覚同士の感じ分けだけでなく、例えば白くて甘いと感じるとき、視覚と味覚とを感じ分けています。この感じ分けは判断以前のことですから、一種の感覚能力によると考えられます。感じ分ける感覚能力は異なった種類の諸感覚に相渉る同一の能力でなければならず、「すべての感覚器官に共通なる部分によって」であり、それは「共通感覚の様態」であると言われます(アリストテレス『睡眠と覚醒について』455a13-26。(『アリストテレス全集6』岩波書店、1968年、245頁))。

 ではこの共通感覚とは感覚全体を外部感覚、内部感覚とするとき、どこに位置づけられるのでしょうか。この位置づけはアリストテレスでは曖昧であったと言われます。ただアリストテレスは、共通感覚は触角とともにあることが最も顕著だと言います。なぜなら触覚は他の感覚器官と分離して存在できますが、他のものはこれから分離してはあり得ないからと言われます。

 アリストテレスには、常識の源流とも言えるフロネーシス(賢慮)の考え方があります。これは、「単に一つの能力ではなく、すでに一定の形をとった慣習的共同存在」(ゲオルク・ガダマー『真理と方法Ⅰ』法政大学出版局、1986年、30-31頁)というようなものです。では、アリストテレスにおいて、感覚の統合形態としての共通感覚と、常識に通じるフロネーシスはどのような関係を持っていたのでしょうか。ハンナ・アーレントは『過去と未来の間』の「文化の危機」において、この関係について次のように述べています。アリストテレスはフロネーシスを洞察力と呼んで、哲学者の知恵から区別しています。フロネーシスは政治家の第一の徳であり卓越です。つまり「判断する洞察力と思弁的な思考の違いは、前者は私たちが通常共通感覚と呼ぶものに根差すのに対し、後者は絶えずそれを超え出るところにある」というのです。

 アーレントにとって共通感覚は、「世界」を私たちに共有させるものなのです。本来私的で主観的な感覚与件が、私たちが他者と共有する非主観的で客観的な「世界」に適合するのは、この共通感覚のおかげだと言われます。そして判断することは、世界を他者と共有できるようにする活動様式、最重要ではないにしても重要な活動様式であると言われています。この判断力論について、アーレントイマヌエル・カントの『判断力批判』から導出したと言います。

 カントは『判断力批判』において「考え方の基準」とする格律を述べています。これは趣味批判の原理とも言われます。前の回でも述べたようにその格律とは、(1)自分自身で考えること、(2)自分自身を他者の立場において考えること、(3)自己矛盾のないように考えることの三つです。この第2の格律が拡張された考え方の格律であり、判断力の格律と言われます。これを可能にするのが、自分自身を他者の立場に置く能力としての共通感覚なのです。そして、カントがいう意味での他者の立場への自己の置き換えは、健康な人間では先験的な性格を帯びています。

              水戸黄門祭にて(2024年8月4日)

『判断力批判』を読む 20)趣味判断の「様態」:共通感ⅰ)

 今日は曇り空で、時々晴れ間が出ました。先ほど、雨がぱらついて、涼しい風に変わりました。風の涼しさにほっとします。

 13日からお盆期間になりますが、子どもの頃13日の夕方に迎え火をしていました。今はやっていません。お盆行事もちゃんと受け継いでいないなぁと反省します。お盆は盂蘭盆会から来ています。地獄に落ちた母親を救うために、多くの僧を招いて供養したところ救われた、という由来が盂蘭盆経の中に書いてあるそうです。お盆は死者と向き合う時間だと言われますが、魂の問題を考えるようになって、そういう仏教行事の中身に関心を持つようになりました。

 さて、カントの共通感覚(Gemeinsinn)の問題ですが、趣味判断の様態の部分に出てきます。美は適意に対して必然的関係(美は適意を持たねばならない)を持ち、それは理論的客観的必然性でもなければ、実践的な客観的必然性でもない、というのです。そうであるなら、この趣味判断の必然性は感情に原理を持たなければならず、それは共通感と見なされるようなものでなければならないだろう、と言われます。

 共通感覚(センスス・コムニス)の概念がドイツ語で表記されるようになったのは比較的新しく、17世紀末ごろと言われます。そして19世紀初めに至るまで、センスス・コムニスというラテン語翻訳語としてのドイツ語Gemeinsinnの使用には、不完全さの意識を伴っていたようです。カントの共通感覚(Gemeinsinn)という概念規定は、そういう時代背景の中で行われていたわけです(千葉建「カントの共通感覚論」『つくばリポジトリ)。

 カントにおいてこの共通感は、私たちの普通の悟性である常識としての共通心とは別だと言われます。なぜなら、「常識は、感情によって判断するのではなくて、概して不分明に表象された原理にもせよとにかく概念に従って判断するものだからである」(判断力批判 上』132頁)と言われています。カントのこの共通感覚としての常識の考え方は、考え方の格律(モットー)として良く引用されています。かく言う私も、考えるとはどういうことかをまず伝えるときに、よく引用してきました。下は「考える」とはどういうことかをテーマにした授業のレジュメの一部です。

 考えるとは:カントの人間悟性(常識)の考え方の規準の格律

 1)自分自身で考えること(成見を持たない考え方の挌律)

 2)自分自身を他者の立場において考えること(拡張された考え方の挌律)

 3)常に自分自身と一致して自己矛盾のないように考えること(首尾一貫する考え方の挌律)

 『判断力批判』の第一篇美学的判断力の分析論、第二章崇高の分析論に出てきます。第一章美の分析論の趣味判断の第四様式で述べられている共通感とは異なっているわけで、この違いをどう解釈したらいいのか、違和感を持っていました。しかし、城戸淳さんの論文「カントの共通感覚論-共同性の感情的基礎のためにー」によると、カントはアリストテレス流の共通感覚を継承していて、それは「共通の人間知性の格律」にも見られるというのです。「普遍的伝達可能性としての間主観的な共通感覚」という理念と捉えられています。この辺り、もう少し考えていきたいと思います。

                柴沼清作『かぐや姫

南海トラフ地震臨時情報

 相変わらずの暑さに体力が消耗しています。パリオリンピックは盛り上がっていますが、8日の宮崎沖を震源とする地震情報に一時テレビは占拠されました。南海トラフ地震という言葉も出て来て、ちょっとびっくりしました。

 8日午後4時半過ぎに、日向灘の深さ31キロを震源とするマグニチュード7.1の地震が発生しました。日南市は震度6弱の揺れを観測し、宮崎港には50センチの津波が来ました。

 トラフ(trough)は、深さが6000メートルより浅い海盆のことです。6000メートルを超えると海溝(trench)になります。南海トラフは四国沖にあり、4000メートルの深い溝になっています。東の端が駿河湾内に位置する駿河トラフと重なっています。西の端は、九州・パラオ海嶺(海底山脈)の北端になります。

 南海トラフは、フィリピン海プレートユーラシアプレートと衝突して下に潜り込んでいる部分です。年間6センチくらい沈み込み続けて、100年で6メートルになります。この沈み込みでため込まれたひずみが解放されることで地震が起きると言われます。南海トラフ地震の記録は古くから残っていて、100年から200年に一度、巨大地震が起こってきました。一番最近のものが、1944年12月7日の昭和東南海地震(M7.9)と1946年12月21日の昭和南地震(M8.0)です。その前が、1854年12月23日の安政東海地震(M8.4)と同年12月24日の安政南海地震(M8.4)です。

 直近の巨大地震から既に80年経っていますから、もうすぐ地震が起こるのではと予測されてきたわけです。今回のものがそうなのかどうかは分かりませんが、いずれやって来る可能性は高い。その被害は、東日本大震災の10倍を超えると想定されています。

 暑いに夏に肝を冷やす事象です。

                    収穫した夏野菜

h-miya@concerto.plala.or.jp