宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

放課後等デイサービス

 今日から放課後等デイサービスで、児童指導員の仕事を始めました。発達障害学習障害を含みます)を持つ子どもたちが、放課後や学校が休みの時に通って来る場所です。

 学習障害LD(Ⅼearning Disability)は、脳の中枢神経系に機能疾患があることによって生じると推定されています。旧文部省は1999年に以下のように定義しています。

 学習障害とは、基本的には全般的な知的発達に遅れはないが、聞く、話す、読む、書く、計算する又は推論する能力のうち特定のものの習得と使用に著しい困難を示す様々な状態を指すものである。学習障害は、その原因として、中枢神経系に何らかの機能障害があると推定されるが、視覚障害聴覚障害、知的障害、情緒障害などの障害や、環境的な要因が直接の原因となるものではない。」

 今日出会った子どもたちは、かつて私が塾で教えたことがあるような子どもたちがほとんどでした。あの頃、どうしてかなぁと教えながら思っていたこと、それが脳の機能疾患が関わっていたのかもしれない、と思うと何とも複雑な思いがしています。

 いろいろなことが分かることで、対応の仕方も変わっていきます。科学的根拠(エビデンス)に基づくことの重要性。その通りだと思います。ただ、社会の側の寛容性が失われていることの問題も大きい気がしています。「みんなちがって、みんないい」の精神がベースにあることが、大切だと思います。その上での科学的根拠に基づく対応でないと、ひたすら矯正のための対応になる気がしています。

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柴沼清作「渦」:コロナ下で渦巻く暗黒のブラックホール。渦の中から生じてくる魔物。この魔物は悪魔なの か、新たな未来への希望なのかを問いかけた作品。 

「パプリカ」のイメージで花を生ける

 今日は結構雨が強く降りました。昨日は、曇っていたのが、夕方頃には晴れ間が出て、ほっとしました。お天気が気分に与える影響は大きいな、と思います。雨が降っていると、静かにしていようという気になります。こういうときは、気分転換に歌をかけたりしますが、「パプリカ」は聞きたくなる歌の一つになりました。

 昨日は月一回のお花の会でした。カキツバタのお生花(しょうか)一種生けか三種で自由花でもいいということでした。お生花に興味はあるのですが、カキツバタの葉っぱの合わせ方とか約束事が一杯あるので、今回は自由花で生けました。

 アオキの葉っぱとひまわりを見たら、パプリカの振り付けのイメージが湧きました。「パプリカ 花が咲いたら 晴れた空に種を蒔こう」「ハレルヤ 夢を描いたなら 心遊ばせあなたにとどけ」。このイメージで生けました。

 剣山は明治時代に登場し、普及しました。花留めの一種です。壺に生けるときは、壺の口に留め木を十文字に入れたり(「十文字留め」)、Y字型の枝を使って「又木留め」をします。私たちの場合、剣山が多いです。花の形を作りやすいことと、花留としては手軽で万能感があります。

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剣山が動くので新聞紙で止めています。小石などを入れるつもりです。紫の花はリヤトリス、その脇に生けてあるのがアレカヤシ。△を作っているのは縞フトイ。

水色の世界

 昨日の夕方、ネモフィラが満開のみはらしの丘に行ってきました。翌日から緊急事態宣言が出される地域からも、観光客が来ていたと思います。それでも、夕方でもあり、人ではそこそこでした。連休から連休明けぐらいに見頃が来るのですが、今年は早かったようです。

 一面のブルーの世界。空と地続きのような景色の中に、人が思い思いに立ち止まっていて、水色の中に埋まっているような不思議な光景。ネモフィラはよく見かける花ですが、ここまで埋め尽くされると幻想的な絵になります。

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「パプリカ」

 21日の「はまぎくカフェ」で「パプリカ」をみんなで歌いました。これからカフェの応援歌にしていきたいという趣旨です。私たちにできるように、スタッフの一人が振り付けも考えました。でも、最初は、皆さん歌うだけで精一杯。それも結構、難しかったです。 

 「パプリカ」がレコード大賞を取ったとき(2019年12月30日)、正直言って驚きました。Foorinという小中学生5人のユニットが歌って踊っていました。えー、これがレコ大、と思いました。でも、今回、自分たちのカフェの応援歌にしようと、歌ってみると、「雨はくゆり」とか「らるらりら」で引っかかって、上手く歌えませんでした。難しい、と思い、作詞作曲家を調べたら、米津玄師さんでした。道理で、と思いました。

 米津玄師さんの「レモン」は、ドラマ「アンナチュラル」の主題歌でしたが、あまりにぴったりで衝撃でした。「夢ならばどれほど良かったでしょう 未だにあなたのことを夢にみる 忘れた物を取りに帰るように 古びた思い出の埃を払う」で始まり、無音の間があり、「戻らない幸せがあることを最後にあなたが教えてくれた」と続きます。ここの無音の間は、意識レベルが変わる間合いのように思います。ハッとする部分です。

 「胸に残り離れない 苦いレモンの匂い」が2度、「今でもあなたはわたしの光」が3度出てきます。この印象的なフレーズと、1番、2番、でも次が変則的3番。これどうやって覚えるの?という歌です。楽譜で見た方が構成は分かるのでしょうが、詩に音が付いたような曲だなぁと思っています。

 「パプリカ」も小節の最後の拍から次の言葉が始まったりして、それが歌う時難しさを感じさせます。「曲がり くねり はしゃいだ道」で始まります。一つひとつの言葉は難しくないのですが、言葉のつなぎ方に驚かされます。「雨に燻(くゆ)り」は意味というより音で取っているのかなぁと思います。

 子どもたちが歌っているので、内容も子どもたちの世界のような気がしていましたが、文字化して読むと、思春期以降の歌ですね。「夏が来る 影が立つ あなたに会いたい」「帰り道を照らしたのは 思い出のかげぼうし」、そして「ハレルヤ 夢を描いたなら 心遊ばせあなたにとどけ」は3回使われています。これがキーコンセプトなのかな。

 小節の最後の拍から次の言葉が始まったりする変則さが、逆に刺激的で単調さを防いでいます。懐かしさを感じさせるメロディーに、組み合わされている崩し。音に言葉を載せるやり方も一様ではなく、かといって無茶苦茶ではない。感性の言葉やリズムなのでしょうか。

 曲名が果物だったり、野菜だったり。でも内容は人間の心の闇や切ない思い出を絡ませた応援歌。これもうまいなぁ。米津さんは漫画家志望だったそうです。映像への拘りはその辺りとも関わるのかも。言葉自体も映像的です。

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      2021年4月21日「はまぎくカフェ」の飾りつけ

フロギストン説

 ものが燃えるのはなぜか? 私たちは酸素の働きによると習っています。でもそれってどういうことか説明して、と言われると…。燃焼とは酸化反応の一種で、っていうことは錆ることと同じ反応ということですよね。感覚的には、フロギストンという燃素が離れることと言われた方が、すっと入ってきます。

 古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスは、「水・空気・土・火」を四大元素と考えました。すごく単純な発想だなぁと思っていましたが、それは私が学校で習った理科の影響ですね。

 フロギストン説の展開を見ていくと、科学の言葉の形成過程や推移を通して、私が(学校で習って)真理として受け入れている考え方も、仮説として始まり、実験や観察の中で作られてきた反証可能な理論なのだということがよく分かります。

 実際、燃焼の理論を追っていくと、感覚実感といかに離れているかもわかります。火とか炎というのは、何なのか。火とか炎はものが燃えているときに出ている現象ですが、この現象は燃焼と言われます。燃焼とは、可燃物が酸素と反応する酸化反応です。うーん、酸化反応と燃焼は直観的にはすぐには結び付きません。

 酸化反応というと、どうしても緩やかな錆の反応とか、体内のブドウ糖が酸化されて水と二酸化炭素になるとかを思い出します。酸化という言葉には腐食というイメージがあるせいでしょうか、燃焼も酸化反応といわれると、あれそうだったっけ、と思わず考え込みます。

 フロギストン、ギリシア語で可燃物を意味する言葉から来ています。1697年にドイツ人医師ゲオルク・エルンスト・シュタールが、ヨハン・ベッヒャーの「燃える土」にヒントを得て、燃える元素を考え、フロギストンと命名しました。フロギストン説では、物質はフロギストンと灰の結合したものです。燃焼させると物質からフロギストンが放出され、灰が残ります。金属灰を木炭と燃焼させると、金属と灰になります。これは木炭の中のフロギストンが金属灰と結合して、木炭が灰になって金属(金属灰+フロギストン)に戻ります。今でいう還元反応です。

 ウーン、それなりに説明されています。ただ、金属灰の質量が、元の金属より重いことは16世紀の時点で確認されていました。そこで説明としてフロギストンは負の質量をもっているなどの説明も出されました。

 ヘンリー・キャヴェンディッシュは1766年に、金属と酸が反応したときに出る気体の研究を行って、これが非常に軽くかつ燃えやすいことを発見します。そしてこの気体こそがフロギストンではないかと考えました。現在、水素(H)として知られているものです。キャヴェンディッシュは貴族で、大金持ちの変人天才科学者と言われる人です。「クーロンの法則」や「オームの法則」もそれが発表される以前に、発見していたことが、死後の研究ノートから分かっています。

 ジョゼフ・ブラックとその研究を引き継いだダニエル・ラザフォードは今でいう二酸化炭素を取り出し、それをフロギストン空気(1772年)と呼びました。ジョセフ・プリーストリー(英国の牧師)は当時知られていなかった酸素の収集(1775年)に成功しますが、これに脱フロギストン空気と名前を付けています。フロギストンを全く含まないという意味です。プリーストリーは最期までフロギストン説を支持した人として知られています。

 プリーストリーと同時期にアントワーヌ・ラヴォアジエは、フロギストン説に拠らずに燃焼を説明しようと努力しました。彼は空気を「空気の基+火の物質」と考え、燃焼で金属灰が重くなるのは、金属に空気の基がくっ付くせいだと説明しました。この空気の基を探る実験の中で、プリーストリーと同じ実験を行って空気とほぼ同じ密度を持つ気体(酸素)を収集します。この気体を純粋な空気と命名しますが、プリーストリーからこの気体の性質を十分調べていないと批判されました。プリーストリーが脱フロギストンと名付けたものです。

 ここからがラヴォアジエの発想力が輝きます。彼は、フロギストン説に拠らず、空気は2種類の物質からなると想定します。そしてその一方が、燃焼の際に金属と結合すると考えました。だから金属灰の質量は増えるわけです。そして1779年に、すべての酸はこの気体と非金属性の物質が結合したものと考え、「酸を作る元素(principe oxygène)」と名付けました。「酸素」の名前の由来です。

 酸素説の方が、新しく発見される実験結果の説明を無理なくできることで、こちらが受け入れられていったという経緯があります。

 科学の展開において、仮説は大きな役割を果たします。現象を説明しようとして、仮説を立てます。例えば遺伝因子があるというような仮説は、メンデルのエンドウ豆の交配実験のような実証例の積み重ねから推測(1865年)されました。しかし、そのとき遺伝因子があるということは予想されても、その正体が、知覚できる形で実証されたわけではありませんでした。後になって遺伝子の正体がわかりました。1953年にワトソンとクリックによる二重らせんモデルによって、DNAの塩基配列であることが実証されたことは、よく知られています。

 この仮説・理論形成の過程はあまり詳しくは習いません。最新の結果について学習するのが通例です。でも、理論が形成される過程を一度は詳しく学ぶ必要があるなぁ、と感じます。最初の頃の理論の方が、私たちの生活の実感に近い気がするからです。そこからどのように試行錯誤を繰り返しながら、現在の理論が作られてきたか。そこが分かると、科学の理論の反証可能性、という意味も分かります。フロギストン説なんて、ほんとにその時代の最高の知性がああでもない、こうでもないをやっていた訳です。

 フロギストンなんて空想的な、と今の感覚では思いますが、その時代には最も理性的なものの一つだったわけです。看護や介護を科学的思考で捉えていく、ということも、この仮説・理論の成り立ちの中にヒントがある気がします。

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        柴沼清「ある哲学者の肖像」:枝画(えだが)という技法の作品

観察と推論の関係

 シャーロック・ホームズは人並外れた観察眼を持っています。そこから色々推測して、対象者の職業や好み、癖、その時の悩み事などを見抜きます。ナイチンゲールは「観察」の重要性を指摘しました。観察を通して患者の病態を捉えることで、それを改善するための対応行動が取れます。しかし、観察とはただ観ることなのでしょうか。例えば、写生をするとき、当然観察が大切ですが、見ているだけでは絵は描けません。どういう風に何を見るのか。そして観たものをどういう風に描くのか。

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     ジャストロウからヴィトゲンシュタインが借用した図(『哲学探究』第二部ⅺ)

 アヒルにも見えるしウサギにも見えるという、アヒル・ウサギの図があります。そう思ってみるとどちらもその図に読み取れます。しかし、二つを同時に見ることは出来ません。私たちが何かを見るとき、あらかじめ多くのことを知って見ています。これは両方をあらかじめ知っていて、それを読み取ろうとするとどちらも見える。

 さて、そこに問題が読み取られ、それを解決するためには、問題の原因の仮説設定がされます。この観察と仮設との間に直接の因果関係はなく、そこに見る側の見方(バイアス)がかかると言われます。観察して、問題を見い出し、その解決のための原因を仮説として設定する。ウサギを見るかアヒルを見るか、あるいはどちらを重視するか。

 18世紀の燃焼理論がそのいい見本を提供してくれます。これは「燃焼とはフロギストンという物質の放出の過程である」という理論で、燃素説とも言われます。後に、酸素説に取って代わられますが、100年以上も多くの科学者から支持されていました。どちらの説も理性的観察者が主張したわけですが、異なった背景を持つことで、同じ科学的証拠から違った結論が導かれます。

 これが絶対の正解、というのはないということです。ただ何でもありではなく、よりよい仮説とよくない仮説があるわけです。その基準は何か。いろいろ言えると思いますが、理に適っているかどうか、バイアスが含まれにくい手法をとっているかどうか、より広範な現象を説明できるかなどが言えるのかもしれません。

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              3月31日「はまぎくカフェ」の会場の花

日常生活の中の「裸の事実」

 看護や介護という分野での「科学的」とはどういうことかを考えています。戸田山和久さんの『「科学的思考」のレッスン』(NHK出版新書)に、科学的説明はできるだけ「裸の事実(Bare Fact)」を減らす試みだ、という表現が出てきました。これは哲学で言う「ブルート・ファクト(生の事実)」に当たります。なんか、そうか、そういうことかと納得しました。

 哲学でbrute factというと、それ以上さかのぼれない「事実」というような意味です。例えば、「無から有は生じない」には理由はありません。西洋哲学では大前提です。

 現実の生活の中でも、この「裸の事実(bare fact)」(それ以上説明できない事実。そういうものとして受け入れるしかない事実)はたくさんあると思っています。哲学における究極の事実、という考え方から、日常生活の「裸の事実(bare fact)」という捉え方に繋がりませんでした。常識という日常生活の土台という考え方はしていました。ただこの常識とどう向き合うか、という時に手をこまねいていた、とも言えます。デカルト流の保守的生活訓が無難なのかなぁ、と思っていました。

 デカルトの自分用の当座の準則というのは、『方法序説』第三部に出てきます。デカルトの場合は、哲学の理論的作業の裏にある実生活の規則であって、意識的努力を理論的作業に傾注するための取りあえずの方針です。

①第1の格率:自国の法律と習慣に従い、自分の属する社会の人々の最も中庸を得た意見に従うこと。

②第2の格率:私の行動において、できる限りしっかりした、またきっぱりした態度を取ること。

③第3の格率:運命により自分に打ち勝つことに勤め、世界の秩序よりはむしろ自分の欲望を変えるように勤めること。

 しかし、看護や介護が向き合う対象者の人間にとって、生活は仮のものではなく、自分を充実させる生きる場そのものです。患者や要介護者を支えるというのは、彼らそれぞれの生活の充実を前提としています。

 さて、看護の場合は、「健康状態の肯定的変化を目指す援助」が看護実践の中心を構成しています。そして、その対象である患者は、自らの意思と感情、価値観を以て自分の健康状態と向き合っています。個別特殊性が高いので、科学のいわゆる再現性という要件に合い難い。

 介護の場合は、さらに中心を構成するものが何か自体を明確にし難い部分があります。いわゆるADLActivities of Daily Living 日常生活動作)支援が手一杯で、QOL(Quality of Life 生活の質・生命の質)まで視野に入れられているかどうか。それが、介護の現状は日常生活動作の支援であって、日常生活の支援になっていない、と言われるゆえんです。現場においても、介護の中心を構成するものが何か、明確でないと思います。

 日常生活の支援ということ自体、どういうことを意味するのか。

 日常生活の中の「裸の事実(bare fact)」は、構成されたものですが、それは自覚的ではなく身体レベルに組み込まれています。歴史・文化的背景の中で醸成されたもので、それによって生活が動いています。いわゆる常識も日常生活の中では、これに当たると思います。

 社会科学はここの部分に切り込みますが、通常の生活はそれをやっていると回らないので、常識を前提に動きます。でも常識の持っている時代に遅れていく部分は、時に軋轢を生みます。

 介護の世界では、この生活の中の「裸の事実(bare fact)」とどう対応していったらいいのか。科学的ということが介護でも言われるようになっています。科学的ということが、「裸の事実(bare fact)」を減らす努力だとするなら、介護においても要介護者の行動や心を説明し予測することを、勘に頼るのでなくどうやって行くかが問われていると思います。

h-miya@concerto.plala.or.jp