『判断力批判』を読んでいて感じるのは、美の感情と言い、常識と言い、そういう人間的事実を否定できないものと認めて、そこから出発するという「実証主義的色彩の強いもの」(岩崎武雄)と言われるような部分です。私には、カントは理念から思考を展開すると言う思い込みがあって、前から、カントの中にある道徳感情あるいは道徳意識を「事実」として、そこから「意志の自由」を想定する発想にも、違和感がありました。
有名な『実践理性批判』の結びの言葉であり、カントの墓碑銘でもある「わが上なる星をちりばめた空とわが内なる道徳律」への感嘆と畏敬の念。これがカントにとっての原点として出てくると、一瞬、どう捉えたらいいのか迷いました。
岩崎武雄氏は、「人間的な事実を事実として認めることから出発してそこに人間的立場の真理を見出そうとするもの」(『カント』261頁)であるとして、広い意味での実証主義的色彩の強いものといいます。つまり、人間の経験に与えられた事実を事実として認める立場を実証主義と解するということです。
道徳意識も美の感情も人間における主観的事実と言えます。その内容に差異を主張する人も、その事実自体は否定しないのではないでしょうか。ただ、以下のように道徳法則の意識を根拠として自由を認識するという思考の流れには、驚かされたのを覚えています。
もしわれわれの理性において、道徳的法則が自由に先立って明確に考えられていないとしたら、我々は自由なるものを(たとえ自由が自己矛盾を含まないにせよ)想定する権利が我々にあるなどとは思いはしないだろう。 (『実践理性批判』岩波文庫、1979年、序18頁)
カントにとっては、道徳法則の意識はゆるぎない人間的事実だったということです。教え込まれたものとか、窮屈なものとか、とは考えなかったわけです。道徳法則の意識自体を批判の対象とはしていない、ということへの驚きでした。時代的なものもあるのでしょうか。その辺りは、また、別に考えてみます。
美の感情も主観的なものですが、カントはそこに普遍妥当性を持つものがあると言います。「そんなの人それぞれですよ」という言葉が聞こえてきそうですが、カントはどういう論証をするのか、少しずつ、捉えていきたいと思います。
サツマイモの収穫期になりました。