宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

人間の尊厳と自立6.目的の王国における人間

 連日暑いです。本当に「残暑厳しき折から」という表現がぴったり来ます。21日に放課後等デイサービスの子どもたちを浜辺に連れて行って、遊びました。カニや波しぶきに子どもたちは楽しそうに遊んでいます。こういう光景には「自発性」が見られます。自立の根底にあるのは、このような自発性としての自由なのだと思います。

 人間の尊厳に関しては、カントの統制的理念(2021年6月14日のブログ「カントの統制的理念」参照)として捉えておきたいと思います。カントの人間性の概念は、人間は価値を持つのではなく尊厳を持つ、というものです。価値は値段が付けられますが、尊厳は何ものとも比較のしようがないものです。それはどこから生じるのかと言えば、道徳法則を自らに課す人間の自由意志、自律性にあると言います。人間は目的そのものなのであり、自らに目的を設定する存在です。それは道徳法則の神聖(不可侵)から来ています。道徳法則の神聖は勝手気ままに仮構されたものではなく、実践理性の本性によって課せられた理念です。ただしこの理性能力の実現は「人類史の目標」であって、現実の個々人は、人間の尊厳を分有している、あるいは、担っている存在と言えます。

 カントは歴史哲学の中で、人間の発展を5段階に分けていると言われます。1)本能の段階:人間そのものが一つの自然。2)自由の萌芽の段階面において理性的であり、多面において利己的。それゆえ闘争の状態が見られるが、この状態は長続きしない。3)市民社会の段階:法の秩序の下に市民社会が出現。国家が典型。啓蒙と批判の時代。4)世界主義的共和国の段階:国際連盟に見られるような永久平和への兆し。人間関係と国際関係はすべて法の下におかれる。5)道徳的世界共和国の段階:人類は真に道徳的に統一され、人間はすべて目的そのものである目的の王国の段階。目的の王国は一つの理念(Michel Despland,Kant on History and Religion,1973.をもとに澁谷久さんが「カントにおける目的論と歴史哲学」で論述したものを参考にしました)。

 この考え方によると、私たちは第4段階を生きていることになります。法の下に置かれるだけでは不十分なことは、納得します。それは最終的には、道徳の下に統一されなければならない、ただしこれは人類史の目的であって、実現するかどうかは遠い彼方にある、と言われます。

 私たちは道徳に対してどこか斜に構えているところがあります。それは私たちの文化の基底にある「同調性」と関わっているのかもしれません。「安心の文化から信頼の文化へ」という視点が社会心理学で出されています。安心の文化を支えているのは同調性でしょう。この同調性は揺らぎながらも私たちの心性を捉え続けていると思います。私たちの自発性は、どこか自律としての自由というより、勝手気ままで終わっている。だからでしょうか、高齢者の自立(自律)が人間の尊厳と結びつかない。私たちの自由も自立も、感性的存在としての人間のそれに矮小化されているという気がしています。 f:id:miyauchi135:20210827163511j:plain 

               沖を行く船      

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