13日(水)午後1時半から、しおかぜみなとの多目的室で、ミュージック・ケアを体験しました。円を作って座り、お互い同士を感じ合いながら、音楽に合わせて指運動をしたり、鈴を振ったり、鳴子を鳴らしたりしました。
指導して下さった西野裕子さんは、石川県のミュージック・ケア協会(加佐ノ岬倶楽部音楽療法研究所)で指導者の資格を取られた方です。加佐ノ岬倶楽部は、加賀谷哲郎さんが1967年に設立した日本音楽療法協会から展開したものです。以下、尾崎祐司さんの「マイノリティへの教育から生成された加賀谷哲郎の音楽『療法』観――領域『自立活動』の目標と内容を反映した音楽教育――」(上越教育大学大学院学校教育研究科『音楽教育学第49-1』2019年)を参考にまとめました。
1967年から1977年にかけて、音楽療法の分野では、リーダー的存在の研究者たちが次々と研究組織を立ち上げていたようです。加賀谷さんは、東京都の教員生活の中で、経済的貧困家庭、生活様式が異なる家庭、障害者という被抑圧性のあるマイノリティの学習群の問題と向き合いました。彼はもともと声楽家を目指していた人でした。教員免許を取得して、音楽教師としての道を歩み始めたのち、水上生活者、山谷の子どもたちの被抑圧性を、せめて音楽教育で和らげようと、教育活動を行いました。
加賀谷さんは、マイノリティの立場にある子どもたちの学力格差が、「不信や否定の観念」の強さという情緒面の問題に起因する傾向が強いことを見て取り、「情緒の安定」の実現に教育的ニーズを見出して、「音楽教育」を模索し始めたそうです。
加賀谷さんは「音楽を手段として教育治療的な考え方や方法」(1970年)を生み出し、それに仮に「音楽療法」と名づけました。加賀谷さんは、音楽療法は音楽教育とは目的を別にすると考えていました。彼の音楽療法では、音楽は手段でした。
「音楽療法」という言葉は、1906年に山﨑恒吉さんが「Music Therapy」の訳として使ったものです。山崎さんは、西洋における医療の応用として音楽療法を紹介しました。音楽療法の言葉を使って、加賀谷さんは自分の教育治療的考え方を表現しました。そして、西洋の医療の応用分野としての「Music Therapy」を「音楽治療」(1979年)と呼び変えています。なぜなら、「Music Therapy」は医師の指示に従うもので、医師法に基づきますが、加賀谷さんが主張する音楽療法の目的には、教育的な意味合いが含まれているからです。
加賀谷さんの「音楽療法」の考え方には、「心理的安定」「人間関係の形成」「コミュニケーション」能力の向上という「自立活動」の内容を音楽の学習に反映させる必要性が含まれていると、尾崎祐司さんは解釈しています。
「自立活動」というのは、特別支援学校、特別支援学級、通級による指導の場に設けられた指導領域です。特別支援教育という言葉は、2001年(平成13)春から、特殊教育に変わって使われるようになりました。そして、2006年(平成18)6月に成立した改正学校教育法では、特殊学級が特別支援学級に名称変更され、これまで支援の対象から外れていたLD(学習障害)、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、高機能自閉症などが対象に含まれるようになりました。
特別支援教育を整備していく中で、自立活動の概念も形成され、学習指導要領に明記されて行きました。定型発達の子が、各教科などで培う「知識・技能」、「思考力・判断力・表現力」、「学びに向かう力・人間性」の3要素は、障害のある子の場合、「特別の指導」を必要とするという認識から実施される領域です。
自立活動は6つに区分されます。➀健康の保持、②心理的な安定、③人間関係の形成、④環境の把握、⑤身体の動き、⑥コミュニケーション。尾崎さんは、この6区分と、加賀谷哲郎さんの「音楽療法」の効果とを比較対照して、関係づけています。
加賀谷さんは「音楽療法」のねらいに、「音楽の特性をいかして、子どもの心身に快い刺激を与え、情緒の育成、さらに運動感覚機能の促進と知能の啓発を促し、子どもの心身の発育、発達に好ましい変化を与える」(加賀谷『音楽療法』1979年,26頁)ことを上げているそうです。
以上から、加賀谷さんは、音楽が持つ力を「情緒の安定」だけでなく、情緒を育て、運動感覚や知能の発達にも変化を与え、好ましい人間関係の形成という教育的目的で使おうとしたと言えるでしょう。
音楽療法ではなく、現在、ミュージック・ケアという言葉を使っているのは、加賀谷さんの以上のような考え方を生かそうとしているからかな、と思いました。現在では、ミュージック・ケアは、子どもだけでなく高齢者や障害をもつ人たち、不安を抱える人たちなど、すべての人がその人らしく生きるための音楽を使った援助活動、となっています。