8日に柴沼清さんの「『枝画』への誘い(第3章)」を観てきました。丁寧な説明付きで、じっくり鑑賞。枝画という技法の可能性を、作者から説明され、3回目の今回、漸く少し分かってきた気がします。
2次元のキャンバス絵画と彫刻が組み合わさっている感じがしました。枝が作り出す陰影の力。それはどこに作品を置くか、朝の光の中で見るか、夜の照明の下で見るか、どの位置から見るか、で色々な見え方が生み出されます。
見る人のその時の状況まで加わると、作品の作り出す世界は変幻自在。どこまでも広がって深まって行きます。
ひたちなか海浜鉄道のおさむ君とミニサムちゃん
おさむ君は2019年に亡くなっていますが、作品では妹分のミニサムちゃんと今も生き続けています。
柴沼作品の女性像はとても素敵です。今回は手足を強調して表現したそうです。以前の女性像も飾られていて、物思うような遠くを見るまなざしには惹きつけられるものがあります。
今回印象に残った作品は、下の「魂を刻む:棟方志功」の造形姿勢でした。その一途な姿に引き込まれました。
それと、今という時代を生きる者として見過ごせない世界情勢を表現する作品と、だからこそ未来への希望を託された女性の像が印象深かったです。
「自由の拘束:反対派はテロリスト」
下の作品「世界を繋ぐ:平和へのリング」と「平和への接点」は、ほっとさせられました。
今という時代の問題は否応なしに訴えかけるものがあります。また、作品に没頭する中で実現されているフロー(Flow)状態が時代を超えて人の心を掴むことも実感しました。
フローというのは、ミハイ・チクセントミハイの提唱したフロー理論です。完全に集中した状態や幸福を、彼は、フローと言っています。
生きることは『ブギウギ』ではありませんが、しんどいことが沢山あります。芸術は、それらに敏感になりながら、私たちの心が潰れないためにあるのかもしれません。
大人になると感覚がマヒしていきます。そうでないと生き切れないからでしょうか。でも、鈍感になりきることなく生き続けられるよう、現実に打ちのめされそうになる感覚を浄化してくれるのが、芸術なのかもしれません。そこからしか、本当の意味で「考える」ことは始まらないのだと、思います。