宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』8:畏敬を宿すラクダの精神

 『ツァラトゥストラ』は不思議な魅力を持った著作です。大学時代に読んで、引き込まれました。ニーチェの『人間的な、あまりに人間的な』や『善悪の彼岸』は、あまりにも尖った精神の表出のように感じられて、途中で読むのをやめました。それでも『ツァラトゥストラ』を読んだのは、自分が探している何かをぼんやりと感じたからかもしれません。それと卒論にカントを選ぶ気にはなれず、ハイデガーも敷居が高く、まだニーチェの方が言葉が入ってくる感じがした、という理由もあります。

 その当時、精神の三態の変化は、うなずきながら読んだ覚えがあります。「そうだ、そうだ」と。ラクダからシシへの変化は身に染みるような感覚で入ってきました。ただその時代、子どもの精神が最後の段階に位置することは「納得」がいかないままでした。それって桃源郷の話なんじゃないの、と考えたことを思い出します。でも今は、最後が「遊ぶ子ども」ということを、そうかもしれないとかなり納得しています。ここの部分を自分の中で了解したいと思っています。

 さて、ラクダの精神を、ツァラトゥストラニーチェは内に畏敬を宿す精神と捉えています。この畏敬とは何か。吉沢伝三郎さんは、アウグスト・メッサーの解釈を基本的に妥当とした上で、「畏敬とは、敬意を交えた、あるいは敬意によって純化され精神化された恐怖のこと」と述べます。そしてこの恐怖こそが、道徳の本質をなすのだと。奴隷道徳は支配者に対する「恐怖心」の道徳であり、支配者の道徳は「(同等者である)隣人に対する恐怖」だというのです。そして、現代の民衆の良心の本質をなすのは、多数者の権力への恐怖だと言われています。ここを通ることなく精神は、自由へと駆け上ることはできません。

 コールバーグの道徳性の発達段階論の中で、慣習レベルの道徳までは確かに「恐怖心」が見え隠れします。慣習以前のレベルでは、正に「恐怖心」によって道徳はコントロールされています。慣習レベルでは、恐怖心は背景に退いて、共感性や理屈付けが表に出てきます。しかし、恐怖心が克服されているわけではなく、だからこそちょっと斜に構えた人は、そこを突いてきます。でも、この段階では、共感や理屈も現実に作動していて、斜に構えた人間が痛いところを突いてくると思いつつも、浅はかと捉えます。

 コールバーグは、慣習以降のレベルをカント的義務論や聖人・君子(イエス・キリストや釈迦、孔子)の在り様に範を求めました。しかし、ツァラトゥストラニーチェは破壊者としての徹底精神、「われ欲す」というシシの精神への展開を語りました。一方で、それは「没落」への危険な道行きであることも語っています。新しい価値を 創造できない破壊者は、当然のごとく「没落」していくのです。そうやって人間は、超人へと橋を渡ると言われます。

 我欲だけから、社会の掟に背くものは、自分への敬意も失うのです。

 きみは、くびきを脱する権能をそなえた者であるか? 自分の隷属を放棄するや自分の最後の価値を放棄した者が、たくさんいる。(『ツァラトゥストラ』「第1部 創造者の道について」

  それゆえ、シシの精神にもなしえない創造は、遊戯する精神として「遊ぶ子ども」によって成し遂げられる。ここには、大いなる価値転換の思想が語られています。この辺りまで来ると、あまりに理念的すぎる感じもしてきます。むしろ、コールバーグ的な発達段階論の方が納得がいく気がします。しかし、ニーチェが語ろうとした文化論的な壮大な思想的試みに、心惹かれるものがあるのも事実です。

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