宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ニーチェ『ツァラトゥストラ』1

 フリードリッヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの主著と言われる『ツァラトゥストラ(Also sprach Zarathustra)』は、1883年2月にその第1部が完成させられました。それに先立つ1881年の夏、スイスのジジルス=マリーア村滞在中に、この書の根本構想である永遠回帰の思想が彼を襲いました。人生への示唆に満ちたこの不思議な書。今、気になっている部分は、精神の三態の変化で、最後が子どもであるところ。そしてこの子どもは「遊ぶ子ども」です。さらに真面目さ批判である重力の精という部分。

 ニーチェザクセンに生まれました。元々の家系は商人。しかし祖父と父はルター派の牧師です。父親はプロシアへの篤い愛国心を持ち、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世を敬愛し、同じ誕生日に生まれた長男であるニーチェの名前につけました。父親はニーチェが5歳のとき亡くなります。弟ヨーゼフも父の死後数か月で、2歳で亡くなりました。父と弟を亡くし、ニーチェはその後、ナウムブルクで、母、妹、母方の祖母、未婚の伯母二人に囲まれて育ちます。

 19歳でボン大学に入学し、神学と古典文献学を専攻。その後ライプティヒ大学に移り、古典文献学の研究に専念。24歳のときに、スイスのバーゼル大学に、文献学の教授ポストに招聘されました。

 ツァラトゥストラとはどういう人でしょうか。ツァラトゥストラとは、古代ゾロアスター教の予言者、ゾロアスターのドイツ語での慣用発音です。ゾロアスター教は、イラン北東部で創始され、主神アフラ・マズダの名を取って<マズダ教>とも、また聖火を護持する儀式から<拝火教>とも言われます。

 ゾロアスターは青年の頃、カスピ湖西南、ウルミ湖畔の故郷を去って、サラバーン山脈に籠ります。そこでアフラ・マズダの啓示に寄って聖典アベスターを書きました。それを携えて30歳ころから布教しましたが、10年間は一人の信奉者を得たに留まったと言われます。

 ニーチェの『ツァラトゥストラ』は、ニーチェの脱ヨーロッパ志向と結びついていると言われます。ニーチェは、プラトン主義とキリスト教というヨーロッパの理想主義が、潜在的に無の上に立てられていてニヒリズムであると批判します。この書の文体の美しさには定評がありますが、1890年まで省みられませんでした。『ツァラトゥストラ』は1890年代の半ば以降、ドイツの文学や思想界に爆発的影響を与えました。

 ニーチェは1889年1月に、イタリアのトリノで精神に異常をきたし、1897年まではお母さんに面倒をみられていました。1900年に彼は亡くなりますが、お母さんの後をついで彼の面倒をみたのが、妹のエリーザベト・フェルスター・ニーチェです。彼女は、ニーチェを宣伝し、ナチスの教義の理論的バックボーンとしてニーチェの思想を使うことに賛同しました。ナチスとのこの不幸な関係に寄って、第2次世界大戦後、ドイツでのニーチェ研究は停滞しました。

 現実と思想との関係の難しさを感じる事例の一つです。

 

h-miya@concerto.plala.or.jp