宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

介護と祈り

 7月も第2週に入ってしまいました。今日(5日)といっても、もう日付が変わってしまいましたが、茨城有権者の会の総会がありました。会の参加メンバーはほぼ65歳以上の高齢者です。この会だけではなく、市民運動で自主的活動をしている集まりは、高齢者が中心になっていると思います。シルバーリハビリ体操の講習会で、高齢者の体操の考え方の整理がテキストに載っていました。

 市民活動での中心メンバーは、以下の写真の「元気高齢者」と活動への強い思いを持った「虚弱高齢者」と言っていいのではないでしょうか。「要介護者」であっても活動への強い思いを持っているなら、市民活動の参加メンバーです。

 終末まで、そういう強い思いを持ち続けられるなら、その人の毎日はとても充実していると思います。大田仁史さんは、障害者の生活に関心を持った時に石川啄木の「病みてあれば心も弱るむ」という歌に心を打たれたそうです。そして弱い心とは思いが過去にのみ向いている心ではないか、強い心とは将来に目が向く心ではないか、どんな援助が「障害を負った弱い心の人たちを少しでも強くしてあげられるか」その手段の模索が一生の仕事になった、と書かれています(『茨城新聞』「ドクター大田のリハビリ忍法帖」第641回、2019年12月11日)。

 終末に向かっている人たちの傍に居る介護士は、ソフトランディングとテイクオフに向き合っています。そこにおける希望というのは何なのか。強い心というのが、「次第に目標が遠くに向くようになる心」(大田)とするなら、それはどこへ向かっているのでしょうか。子どもや孫の行く末? 自分たちの子孫への思い? あるいは宗教的来世への確信? 

 どのようなものであれ、介護士としては、死の瞬間が「生き切った」という充足であり、解放への希望であることを願います。介護においてレクリエーションが果たす役割には、現在に閉じてしまう心を解き放って、それぞれの心の中にある潜在的な希望に触れられるようにする、という側面があると思います。そしてその希望は、終末に近づくほどに、不可知な世界への「祈り」の感受性と関わる気がしています。それは介護する側にとっても「祈り」なのではないか、そんな気がします。

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