宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

道徳法則と普遍性

 道徳は法則化できるのでしょうか。カントはそれを試みました。そして義務倫理といわれる「義務ゆえに義務をなす」こそが道徳的行為であると主張しました。「義務よ! 君の崇高にして偉大なる名よ」という言葉が『実践理性批判』(篠田英雄訳、179頁)にあります。じゃぁ、義務とは? ということになりますが、カントの倫理学を考えるとき、通常は『実践理性批判』(原書 1788年)が主著として扱われます。ここで純粋実践理性の根本法則が、普遍性の原理と言われます。

  「君の意志の格律が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」(波多野精一・宮本和吉・篠田英雄訳、岩波文庫、1979年、72頁)。

 格律(率)は個人的な行動法則、モットーです。主観的原理であり、これに対して道徳法則は客観的原理と言われます。そこでの法則は普遍的でなければならないよ、というわけです。義務は理性的に万人に妥当しなければならないということです。でも普遍性だけである格率が道徳的義務かどうか分かるのか。普遍性の原理はそれだけでは道徳法則にはならないというのが、アラスデア・マッキンタイアの批判ですが、むしろ自由と人間性の定式の方が、道徳法則の根本則のような気がします。

 カントの人間性の定式と言われるものですが、通常引用されるのは、『道徳形而上学原論』(原書 1785年)第2章からです。

  「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を、いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」(篠田英雄訳、岩波文庫、1960年、103頁)。

 そして人格性に関しては、『実践理性批判』では『原論』のような定式化はされていません。人間を含めた理性的存在者は目的自体であって、自由による自律のために神聖だと言われています。この自律ゆえに、意志は、理性的存在者の自律に一致するための条件に制約されています。それが、上の理性的存在者を単なる手段にすることの禁止です。でもどうして、定式の形で書かれていないのかなぁ。

  「理性的存在者は、決して単に手段としてのみ使用せられるものではなく、同時にそれ自身目的として使用せられねばならない、ということである」(実践理性批判』181頁)。

 書かれている内容は同じでも、打ち出し方が違いますよね。

 普遍性という基準に関して、マイケル・サンデルは、普遍化という試験は自分の個人的利益と状況を優遇していないかどうかを測るリトマス試験紙(私の表現です)のようなものだと言っています。

 尾田幸雄『倫理学』(学陽書房、1973年)では、普遍性の原理は「定言命法の形式的普遍性の側面を強調して具体化」したものと捉えられています。そして公表性を普遍性の一つの標識であると言います。この公表性は、『永遠平和のために』のなかで、永遠平和の体制を保証する条件として挙げられているものです。

  「他人の権利に関係する行為で、その格率が公表性と一致しないものは、すべて不正である」(宇都宮芳明訳、岩波文庫、1985年、100頁)。

 『永遠平和のために』の中では、続けて、この原理は単に倫理的なものではなく、人間の権利にかかわる法的なものであると述べられています。さらに、格率は公表性と両立しさえすれば逆に正当化できるかといえば言えない、と続きます。なぜなら、決定的な主権をもつものは、自分の格率を隠す必要がないから、と。カントの現実主義者としての側面がよく現れています。だから、公表性は普遍性の「一つの」標識なのですね。

 何をもって道徳法則とするか、難しいですが、人間性の定式はかなり有効かなと思います。ケアの倫理は、これで語れる気がします。でもこれだけでいいのかとなると、もう少し考える必要が出てきます。普遍性の問題をどうするか。要らないのかどうか。不偏性という基準へのスライドかなぁ。

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