「人間の尊厳と自立」という科目の成立を見てみると、法律に記載された(誠実義務)こと、というのが大きいようです。ではなぜそのような条文が出てきたのか。その背景には、施設における拘束等の問題もあるのではないかと思われます。これはまた別に考えていきたいと思います。それはそれとして、なぜ人間に尊厳があるのか、その根拠はどこにあるのか、は今一つはっきりしません。前提として人間の尊厳保持が、提示されています。
なぜそのようなことに拘るのか。この問題は、「パーソン論」の問題とも重なってきます。パスカルは「人間は一本の葦にすぎない、自然の中でもいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である」(ラフュマ版200)として、人間の尊厳を考えることの中に見出しました。西洋思想の中で理性(考える能力)は、人間の証しとして捉えられてきたと言っていいと思います。カントは人格(自由意志)に人間の尊厳の根拠を見い出しました。カントの人格とは、理性によって道徳法則を自ら選択して、自律的・自立的に行為する存在のことです。
では、これが、欠けていると思われる状態はどう捉えられるのか。さらに技術の進歩の中で、胚の問題や臓器移植等をどう扱うのか、ということも出てきています。出生後の人間を対象に限ったとしても、福祉を最も必要とする存在ほど、この人間の尊厳の規定からは外れます。幼児、老人(特に認知症状を呈する人)、障害者など。
私の手元の教科書『新・介護福祉士養成講座1 人間の理解』(中央法規)では、生きていく中で、介護職の支援を受けることにもなるが、それは人間関係を基盤にする、というようなことで始まっています。そして次のように続きます。
人間関係の構築には,現在の生活状況の理解はもとより,人間としての尊厳が保持され,社会の人々との人間的なコミュニケーションのもと,自立した豊かな生活を営みたいという人間の姿の真の理解から始まります。 (2頁)
そして、その人間存在の尊さは理論や知識でなく、直接に感じ取るものだと言われています。しかしながら、この直接に感じ取るとはどのようなことを言っているのでしょうか。通常の「感じ取ること」を根拠にすることには危うさがあります。
かつて、ある教え子が実習に出て、ぽろっと漏らした言葉があります。「先生、生きていても仕方ない人っていますよね」と。
その学生は、寝たきりで自分では食事もとれない、言葉を発することもない利用者さんの姿に、ある意味衝撃を受けたようでした。人間の悲惨な状況に対面したとき、「生命への畏敬」という言葉がどれだけ響くのか。それを感じ取ることができないことを責めることは、無意味だと思います。
私にもその言葉はショックでした。その学生には「安楽死を含めて生きること、死ぬことを考えることは必要だけど、現場では生きることの持つ可能性を信じてないと辛いよ」というようなことを言った気がします。
倫理の言葉はお題目になっては意味がありません。しかし、「倫理の言葉に私たちの心が追い付かないこともある」というようなことも授業で言ったことを覚えています。(他人の感情に同調するという意味での)共感を倫理の基礎にはおけない、という点に私は同意しています。「人間の尊厳」の根拠は、言語化される必要があると思っています。そして、直接感じ取る、ということの意味がもっと明確にされる必要があるとも思います。
現象学の視点を使うことで扱える問題なのかどうか。直接経験(主観的なもの)がもとになって私たちの客観世界が形成されるとして、この直接経験を知覚経験を超え出る領域にまで言えるのかどうか。生きている姿を直接「感じ取る」という直接経験はあるのでしょうか。この「感じ取る」は、「嫌なものを感じ取る」とか、「恐ろしいものを感じ取る」というような、すでに評価的なものを含んでいるのではないでしょうか。
もう一つ、法律の条文では、人間の尊厳という表現が出てきていないことも注意点です。「自己の尊厳」(世界人権宣言)、「個人として尊重される」(日本国憲法第13条)、「個人の尊厳の保持」(社会福祉法)という表現で、人間の尊厳という言い方は見当たりません。しかし、日本国憲法は人間の尊厳という表現を使ってはいませんが、人間の尊厳を根拠としないと「基本的人権」は言えません。ここで語られている「個人」とは、これら基本的人権の保持者であり、その意味では尊厳を持つ人間としての個人と捉えられます。勝手気ままな個人の尊重や尊厳を意味するわけではないのです(この法律的解釈の部分は山崎将文「福祉における人間の尊厳―憲法学からのアプローチ―」(『憲法論叢18号』)を参考にさせていただきました)。