宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

相対性の絶対化

 「~は人それぞれだから」は結構よく聞く言葉です。何気に自分でも使っています。話を切り上げるときや、共感は出来ないけどそういうこともあるかな、という時などに。

 しかし、仕事でこれはありかなと、疑問に思いました。最近体験したことです。ある研修会で「療育は人それぞれのやり方がある」というような言葉が発せられました。それぞれの子どもに効く療育法には違いがあるかもしれません。しかし、療育者側のやり方を「人それぞれ」と表現することはどうなのかと思いました。

 たとえば、心理療法でも精神分析療法と行動療法では考え方も対処法も異なり、それが効果を発する症状も異なっています。また、日本の森田療法は不安を受け入れ、不安と共存するやり方を取ることで不安障害やパニック障害に効果があると言われています。内観療法は一週間閉じ籠って内観します。これはデカルト的な感じがします。禅やマインドフルネスの系譜にもつながる気がします。このように心理療法は一つではありませんが、個人的な「人それぞれ」の療法ではありません。

 特に仕事においては、方針の違いを詰める必要があります。「Aという子のこういう状態にここではどう対応していくか」という具体的事例においては、療育者の力量もありますが、理に適った対応法はほぼ一つに集約します。

 共同作業では、折り合うところを明確にしないと、上手くいきません。「人それぞれ」は趣味であったり、個人的作業においては問題ないです。ただしそれは交わらないということを意味します。力を合わせなければならない場面において「人それぞれ」ということは、相対性の絶対化になります。相対主義も絶対主義も、どちらも閉じたサークルを作ります。相対主義は一見すべてを認めているようですが、それは対話の終焉を意味します。絶対主義が対話を拒否するのと何ら変わりません。

 複数性はまさに相対主義の原点ですが、連帯のためには共有できる点をその都度明確にする必要があります。連帯に当たって、それぞれの生き様に関わる基本方針の相対性を語ることに、どういう意味があるのか。

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              8月18日の平磯海岸

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