宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

『判断力批判』を読む 2)「趣味とは、美を判定する能力」

 これは、『判断力批判』における、趣味の定義です。その形や用途に関して合目的であるある建物を、認識能力によって理解することと、この建物を適意(Wohlgefallen 満足・喜び)の感覚と結び付けて意識することとは、全然別のことだと言われています。これは何となく理解できます。適意という訳は分かり難いですが、「意に適う」と捉えると分かるかなと思います。

 合目的性からの理解は、認識能力に依りますが、心地よさからの認知は全く異なっています。この種の判断を、カントは「趣味」と結びつけます。かつそれが主観的普遍妥当性と結びついていく。ここの部分が今一つ分かりません。「趣味」の概念の使い方が、現代の一般的使い方と異なっているからだと思います。

 私たちは趣味を、「専門としてではなく楽しみとして行うもの」というように捉えています。また、「趣味がいい」という表現で、ものを味わう力や選択眼の良さ(審美眼)を表現したりします。こちらは英語では、tasteを使い、感覚能力を意味します。カントの使い方は、こちらに近い。

 でも、「美を判定する能力」と言われると何となく違和感があります。「美を味わう」という主観に限定された使い方なら分かります。これに対し、「判定」という判断が関わってくるものは、個人レベルを超えた使い方だと思います。趣味という言葉を、私たちは、個人的で多様なものと捉えているからでしょう。ですから、「人の趣味に口出しするな」に納得します。ある種相対的なものと捉えている。でも、「趣味がいい」という表現は、ある人の個人的判定に対し一般的物言いをしています。趣味に対して、その善し悪しを判定する基準を前提しています。

 山本定祐さんの「趣味概念をめぐって」(早稲田商学同攻会『文化論集第9号』)によると、趣味概念の展開は、17、18世紀のヨーロッパ文化に関しては重要なものだったようです。17世紀後半のフランスで、「『良き趣味』は古代の作品の普遍妥当性を主張する際に、美の絶対的な価値基準として用いられる」(16頁)と言われています。引用の一部を私が省略していますが、この語が美的規範として定着するのはヴォルテール以降だそうです。フランスにおける趣味概念は、スペインやイタリアの、特にバルタザール・グラシアン(スペイン人)を受け継いだもの、という指摘もされています。

 ドイツでは、1727年に『良き趣味についての研究』(ヨーハン・ウルリヒ・ケーニヒ)が出版されて、ドイツでの趣味概念の展開に大きな影響を与えました。これ以降の展開で重要なのは、「本来きわめて主観的な感覚に基づく判断であるはずの『趣味』が,悟性能力として捉えられている,という点である」(17頁)と言われます。そしてその背後には、悟性と感覚の楽天的な調和への信仰があるというのです。そこから、美は悟性と感覚の均衡の上に現れる万人に共通の普遍妥当な現象となる、というのです。したがって「良き趣味」は、美についての普遍的規範を可能にする能力ということになるわけです。そして、このドイツでの展開に決着をつけたのが、カントの『判断力批判』(1790年)だというのです。

 趣味概念について、ハンス・ゲオルク・ガダマーは『真理と方法Ⅰ』(ウニベルシタス叢書)の中で、「美学上の概念であるよりは道徳上の概念であることが分かる」(49頁)と述べています。この概念は、スコラの教条主義と批判的に一線を画そうした努力の成果だというのです。バルタザール・グラシアンから引用して、味覚という感覚のうちでもっとも動物的なものにさえ、精神的識別の契機が含まれていると言います。味覚の感覚的識別は、楽しみながら受け入れるか、拒絶することですが、これは「単なる衝動ではなく、すでに感覚的衝動と精神的自由との中間をなしているもの」(50頁)と言われます。

 この感性的趣味の特徴は、まさにそれが、生きるためにどうしても必要なものに対してさえ、距離をとって選択し判断を下すところにある。したがって、グラシアンは、趣味はすでに<動物性の精神化>であるとして、‥‥(筆者中略)‥‥趣味(gusto)についても涵養(cultura)というものがあると指摘している。‥‥(筆者中略)‥‥この趣味(gusto)という概念は、グラシアンの場合、社会的な理想形成の出発点をなしている。つまり、グラシアンが思慮あるひと(discreto)の理想におくのは、<ところをえたひと hombre en su punto>であり、人生や社会のあらゆる事物に対して自由に適切な距離をとることによって、意識的にしかも超然と区別し選択することのできるひとをいう。(50頁)

 アリストテレスを思わせる理想です。かつてアリストテレスの中庸の徳の部分を読んだとき、ちょっと唖然としました。えー、これって何言ってるのかなぁ、と。お金を与えたり、怒ったりするのはその人に属していることで容易だけれども、それが徳になるには、正しいロゴス(理法)に従った「中」を選び取る意志が必要であるというのです。そしてそれをこう表現します。

然るべき人に対して、然るべきほどを、然るべきときに、然るべき目的のために、然るべき仕方で与えたり貸したりするということは、もはや必ずしもあらゆる人には属せず、またやさしいことではない。(アリストテレス高田三郎訳)『ニコマコス倫理学(上)』岩波文庫、1971年、80頁

 中庸は、こういう風にしか表現できないのでしょうね。ガダマ―はアリストテレスの中庸の倫理学を、深い意味における「良き趣味の倫理学」(57頁)と言っています。

 話が脱線しましたが、ガダマーは、趣味の概念のうちに認識の仕方を観て取ります。そして「良き趣味の眼目は、自己自身および私的な好みに対して距離をとることが出来る」ことだとして、趣味とは「優れて社会的な現象」(51頁)というのです。もちろん自分の趣味が拒否するものに惹かれることはあります。しかし、趣味は単なる私的特性ではなく、常に良き趣味であろうとするというのです。理由を求めることは出来ない、感覚のようなものではあり、趣味はおのずと備わっているものだけれども。ここで、ニーチェの「これは私の趣味だ」という言葉を思い出しました。これも引っかかっていた言葉です。

 カントはそれまで社会的な理想形性の出発点をなすものとして、道徳上の概念であったものを、美学上の概念へと限定したわけです。そして、趣味の主観的普遍妥当性を共通感覚から語ろうとした。ということは、カントが共通感覚をどのように捉えていたかを考える必要があります。

               9月の入道雲(9月18日)

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