宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

言語論的転回3)ノミナリズム

 今週7日、8日と雨模様で、冬に逆戻りしたような気温でした。9日は仕事がオフだったので、遅くまで寝てしまいました。腰の痛みが少し和らいだ感じです。その後、水戸の図書館に行って来ましたが、水戸の街まで何となく物悲しい感じでした。10日にはお天気は回復し、暑くもなく心地よい日でしたが、朝晩は肌寒かったです。昨日は午後、施設の回りを利用者さんたちと散歩。気持ち良い午後でした。今日は少し暑いくらいでしたが、夕方、平磯海岸まで歩きました。浜昼顔のちょっとした群生がありました。

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      浜昼顔の群生           夕暮れの平磯海岸 

 さて言語論的転回におけるノミナリズム。ローティがノミナリズムという立場を主張するとき、観念や概念に対して、それらを言葉抜きに取り上げてもほとんど役に立たない、私たちは結局言葉を使わざるを得ないのだから言葉を研究しなければならない、というようなことを言っています。

 でもまずノミナリズムについて考えておきます。これは通常、ヨーロッパ中世の普遍論争の中で出てきた立場の一つである唯名論(名目論)を言い表しています。「普遍論争」のきっかけは、『アリストテレス範疇論入門』(ポルピュリス著)の中で提起された「普遍universalia(種と類)は実体として存在するか、あるいは人間の思考の中にのみ存在するにすぎないか」という問題でした。これが11世紀後半、範疇(カテゴリー)は、物resであるか音声voxであるかの問題と関連して論争となり、実念論実在論概念実在論)と唯名論(名目論)の対立に発展します。

 実念論プラトンイデア論に代表されるような、「普遍は個物に先立つ」という立場です。スコラ哲学には、実念論が都合がよかったようです。例えば、カトリックとは「普遍的」という意味ですから、実念論に立てばカトリック教会は単なる信者の集合体ではなく、信者に先在する権威的実在だということになります。また、神・子・精霊の三位一体も、実念論を取らないと三位が分裂して三神論になってしまうし、人類という普遍が実在しないと原罪や救済の考えが成り立ちません。

 これに対し11世紀の唯名論は、普遍は思惟の抽象の産物か単なる名称nominaに過ぎないとして「普遍は個物の後に存在する」と主張しました。13世紀には実念論が優勢になり、14世紀にはその反動として唯名論が復活するというような歴史的論争を繰り返しました。(オッカムの剃刀で知られる)ウィリアム・オッカムは、「普遍は単なる名称で、個物を表す記号に過ぎない」というように主張しました。

 現代ではノミナリズムの考え方が一般的ですが、実念論の現代における意義を主張する人もいます。また生物学的な視点から、例えば「この犬」「この人」という個物に対して、犬や人間のDNAという「普遍」を指摘する人もいます。これは普遍と個物の関係では、「個物のの普遍」(中世スコラ哲学の区別の仕方は三つ、)と言えるのでしょうか。でもDNAと言ってしまうと、それを遺伝情報と言おうと物質であり、物質は変異していきます。

 アリストテレスの形相(本質)は何に当たるのでしょうか。第一実体としての形相とは何なのでしょうか。アリストテレスは単に名前と考えていたわけではなく、本質はあると捉えていたと思います。ただしそれは、あくまでも個物とともにあり、個物の質料の側面が実現するときにそれを統制しているものとして。ソクラテスプラトン的な永遠のイデア界とは異なる実在論であり、また、DNAという質料(物質)による支配という立場とも異なっていると言えます。

 つい「ではそれは何か?」と聞きたくなるのですが、おそらく、ソクラテスがエレンコスの果てに到達した「内証するしかない次元(非知)」(古東哲明『現代思想としてのギリシア思想』)なのかもしれません。 

h-miya@concerto.plala.or.jp