宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

『判断力批判』(カント)を読む 1)読みの出発点

 毎日、昼間の暑さは「茹だるよう」と言えます。夕方の風はかなり涼しく感じられるようになりました。23日は処暑。暑さが峠を超え、穀物が実り始める時期ですが、あまりの酷暑は作物にもダメージが大きいようです。お米の実りが悪い、と聞きます。

 カントの『判断力批判』を読み始めています。彼の「主観的普遍妥当性」の概念が意味するところを理解したいためです。それと、『判断力批判』はずっと気になっていた著書でもあります。一度は読みましたが、取りあえず「読みました」レベルです。

 主観的普遍妥当性は、美的判断に関して言われています。美的判断における主観的判定が他の人と共有する妥当性を持っていること、それが「主観的普遍妥当性」です。その妥当性の根拠をカントはどう主張しているのか。

 カントは認識の客観性の下にある絶対主観(私の造語)と言ったらいいのか、認識の出発点は主観性であることを明確にしました。現象学の「意識」の概念は、カントの絶対主観の明晰化、詳細な分析だったと言えます。これと通常の、客観性と対比される形の個別主観性(作用としては地続き)は区別して捉えておく必要があります。

 美的判断の主観的普遍妥当性は、相互主観性の概念に近いものを感じますが、それはこれから読み込んでいきたいです。

 それと、共通感覚の問題です。カントは共通感覚を常識の意味で使っています。『判断力批判』第40節に、有名な人間悟性(常識)の3つの格律(モットー)が述べられています。この共通感覚は、趣味の側面としても語られていて、「美学的共通感」と名付けられています。これに対し、普通の人間悟性(常識)を「論理的共通感」と名付けてよいと思う、と言われます。この辺り、もう少し整理して理解したいと思っています。

 共通感覚に関心を持ったのは、中村雄二郎さんの『共通感覚論』(岩波現代選書、1979年)がきっかけですが、ケアの客観性をどこに根拠づけるかを考えていて、共通感覚の問題に結びつきました。それと、ケアの客観性に関しては、知覚の問題が手掛かりになると考えています。この部分は、「ケアリングの客観性」(倫理学研究 Vol.12』)としてまとめました。ケアと共通感覚との関係をどう捉えるかは、これからまとめ直したい部分です。

 美的判断としての主観的普遍妥当性の考え方は、私たちの色々な日常の判断そのものと関わっているのでは、と思ってハッとさせられました。

            千波湖から芸術館に臨む(2023.6.10)

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