宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ケアリングの客観性

 今日も曇り空です。梅雨はいつ開けるのか。気温は丁度過ごし易いのですが、何となくじめついていて、洗濯物が乾ききらない。ヨーロッパが猛暑というニュースを今朝やっていました。異常気象の影響だとか。

 さて、介護の現場に7月1日から復帰しました。前の職場とは別の組織なので、覚えることが沢山あります。まずは、やり方をまねることから始める必要がありますが、利用者さんも多様です。今度の職場は、サービス付き高齢者向け住宅いわゆるサ高住に併設されたデイ・サービスです。デイにやってくる皆さんはサ高住の住人で、認知症の初期症状を持つ人もいれば、身体に問題を抱える人もいて、一緒にデイ・サービスにやってきて時間を過ごします。

 デイ・サービスではお風呂と食事、レクリエーションが提供されます。すでに利用者さん同士の人間関係ができていて、その関係性もいろいろ教えてもらっています。前の職場は、初期の認知症の人たちのデイ・サービスでしたから、送迎がありました。今度の職場には、それはありません。もっとも私は、9時出勤だったので、朝夕の送迎はしていません。ただ、他の部署の昼間の送迎は回ってきました。送迎は、雨の日などは大変ですが、ただ利用者さんにとっては、それだけで、気分転換にはなっていたのかもしれません。利用さんの関係性の認識と同時に、利用さんをどう解釈していくか、改めて自分に問い直しています。

 ケアリングではいわゆる主客二分論は成立しません。科学的な客観的認識態度、すなわち対象から距離を持って、冷静に観察し判断し評価するという認識態度は、科学的認識においても共感の意義が言われる現在、吟味の対象になっています。しかしケアリングにおいては、関わりつつ認識しているわけで、単純な主客二分論は最初から否定されています。私の関わり方が、相手のレスポンスを引き出し、私の評価判断が生じ、また、私への相手の評価判断を引き出しています。

 そこで問われるのは、いかにして妥当な行動が実現するかであり、その妥当性を担保する新たな<客観性>概念の探求が求められます。単に共感からの行動ではなく、コミットメントとしての行動の問題としてケアリングを考える場合、客観性の担保は避けて通れない問題です。利用者さん同士の関係に関わるとき、「やりすぎだろう」というような応答関係には、スタッフが介入していきますが、そこでの客観性は、単純な社会的関係における善悪や礼儀を基準にできない場合があります。

 ケア関係は、基本的に主観的関係と言えます。ノディングズは、ケアリングの本質的な部分を、他の人の実相(reality)を理解すること、できるだけその人が感じるままに感じること、可能性としての実相を引き受け、ある期間を通してその実相に関心を持ち続け、それに応じた関与の仕方を更新してゆくことと述べています。

 なぜそういうことが可能になるかと言えば、それは私たちの主観の成り立ちが、間主観性にあるからではないでしょうか。そこに、妥当性や客観性がいえる根拠があると思います。取りあえず今日はここまでにします。

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                気分休めにネモフィラ

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