宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

本を読む

 台風の影響で、突然、雨がザーと振ります。13日はそれで失敗して、かなり乾いたタオルケットを少し濡らしてしまい、乾燥機をかけにコインランドリーに行きました。昨日は、凝りて、雨雲に気を付けていました。まだ生渇きのものもありましたが、取り込んで10分もしないうちに、ザーと来ました。「やったー」という気分。

 本の整理をしながら、かつて読んだ難しめの本を見ては、読み切る動機はどこから来たのか考えていました。最近読んだ重田園江著『社会契約論』(ちくま新書)は読み応えがありました。授業の関係で読んでおこうと思って読みましたが、分野が少し違うものは、読み続ける動機が必要になります。自分のやっている哲学・倫理系でも、少し難しいものは、授業が動機づけになっています。

 ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を購入したのは大分前ですが、読み終えたのはわりに最近。「遊び」を考えていて、読もうと決心して読み、ホイジンガの学識に圧倒されました。翻訳者の高橋英夫さんの語彙の豊富さにも圧倒されました。古典と言われるもので、ずっと読もうと思っていたものはどこかで読むものです。

 しかし、古典で読みたいと思っていても、なかなか手が付かないもの。ヘーゲルの『精神現象学』とか、マルクスの『資本論』(1冊目は読みましたが、そこで挫折)。この手の本は、勉強会とか授業での購読、とかいう形でないと難しいです。読みを指導してくれる人が居ないと、深い森の中を彷徨って出口が分からないまま、挫折する。

 既にお亡くなりになった片山洋之介先生と、『死の哲学』(田辺元哲学選Ⅳ)を研究者同士何人かで読んだことがあります。片山先生は読み方を指導されたりはしませんでしたが、所々へのコメントで、なるほどと思うことが何度もありました。私一人では読まない本です。読めない内容ではないのですが、根気が続きません。どういう問題意識で読んでいいのか分からない。読んでいくと、「なるほど」が一杯なのですが。

 他の人の問題意識を共有できる場がこういう読書会なのだと、今更ながらに思います。著者や著作への愛着とそれへの研究のバックボーンを持つ人と読むと、私なりの読み方をしながらも、大局的にどこへ位置づければいいかが分かります。読書の幅が広がります。

 読書は一人でするものとずっと思ってきました。本を指定されるのも嫌だったし、読み方を指導されるのも嫌でした。しかし、自分一人で読める本とそうでないものがあると気が付きました。自分に鞭打って読むのでなく、人と共にする豊かな読みがあるのだと。読書会とか大学での購読授業の意義が分かった気がします。

歴史館の庭(2023.7.4撮影)。四阿(あずまや)があって、休みながら話をしている人たちがいました。こういうところで読書会もいいなぁ。

 

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