宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「型」と創造の関係

 今日は空気は冷たかったのですが、日差しがあったので部屋の中は暖かでした。外を散歩しても、お天気のよさが気持ちの良い一日でした。明日は寒くなりそうです。

 枝画の作家さんとお話しする機会がありました。「枝がどう使うかを教えてくれます」と言っていました。生け花でも、同じことを感じます。テキストを見たり、他の人が生けているのを見たり、先生からのアドバイスがありますが、最終的に自分の手元の花材の訴えるものに従います。それは、枝ぶりが主張している感じでしょうか。これが主役だなぁ、と感じるときは、それに従って生けていきます。枝画も生け花も、植物の声を聞くことは、同じだなぁと感じました。

 私の場合、自由花でも、テーマが先ではありません。そう言うことは稀です。花材に合わせて生けています。花材を生かす、という感じです。その意味で、生け花に関して、あまり芸術という感じがないのかもしれません。芸術というと、作家のテーマを造形するイメージがあります。習い事になっているものは、型が示され、まずはそれに従って生けます。そうすることで、それなりの作品を作ることが出来ます。でも、華道家といわれる人たちは、違っている。自分の主張を生けるわけです。

 自然美に関して、カントは「美しい」と感じることは万人に共通しているという意味で、主観的普遍妥当性を言っています。その根拠を共通感覚に置いていたようですが、美の判定は趣味判断といわれます。美の算出は「天才」を必要とします。趣味判断は共同性を前提しています。そして、天才と趣味判断がぶつかった場合、「犠牲はむしろ天才の側において生ぜざるを得ない」(判断力批判(上)』岩波文庫、278頁)と言われます。

 カントは、共同性を美の判定の根底において、趣味判断を美の算出より上位に置きます。趣味判断は共通感覚に根拠を置きますから、ある範囲でなぞることを可能にします。料理のレシピは、プロの8割の味を実現することを目指すという考え方を、『キッチン革命第1夜』(2023年3月25日NHK放送)で見ました。計量カップと計量スプーンによって、職人の経験技を数値化することで、職人の味を家庭に持ち込むことに成功した、という話でした。

 生け花の型にも、それが言えるのでしょう。

              庭の随所に拘りがありました

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