弁証論という言葉に引っかかっています。カントはDialektikを、理性による仮象の論理を批判するという意味で使います。日本語訳としては、弁証法ではなく、「弁証論」を当てます。
Dialektikを遡ると、ギリシア語dialektikēに辿り着きます。この言葉はもともと形容詞で、後ろにテクネ―(術)やエピステーメー(知)が続いたようですが、現在、これらを省略した形で使われています。ディアは、二つの間に、という意味で「分かつ、弁別する」という意義を持つそうです。ディアレクティケーは、名詞のディアロゴス、動詞のディアレゲイン、ディアレゲスタイと関連しています。相互の話とか話し合うという意味合いになり、対話や問答、話し合いと関わっています。
ソクラテスの問答法はディアレクティケーですが、どうしてソクラテス的対話術が弁証法と言われるのか、引っ掛かっていました。ディアレクティケーは弁証法と訳されますが、根幹には問答法とか、ロゴスの意味で議論、理論、理法に繋がります。
ソクラテスの問答法は、単なる論争術ではなく、吟味とか論駁の意味でエレンコスと言われます。何を吟味しているのかと言えば、たましいであり、生き方そのものです。私は、問答法というものを、「真なる答え」を求めての対話、発見の技法という感じで捉えていました。ですから、ソクラテスの対話は、なんか答えの出ないものへどんどん踏み込んでいく問答(対話)で、今一つ、「これが対話?」という感じで腑に落ちませんでした。
ですから、古東哲明さんの『現代思想としてのギリシア哲学』の「非知の技法ーーソクラテス」を読んだときは、目から鱗でした。そうか、答えを出すための対話ではないんだと、気が付きました。自分の言説の中の矛盾に気づいていく、気づかせる技法としての対話であって、その先はまさに黙する以外にない世界に向き合うことになります。
そして、弁証法について考えていくことで、私の対話のイメージ(お互いを生かし合う)と異なって、ソクラテスの矛盾を突き付ける形の対話法はなるほど弁証法なんだと、得心しました。プラトンに関してはディアレクティケーを真理発見の技法として、捉えていたという見解もあります。
茅野良男『弁証法入門』(講談社現代新書、1969年、31頁)では、弁証法とは現実に存在する反対や対立を認識して、それを克服し、解決しようとするところに成立する考え方と言われます。
弁証法というとヘーゲルの正反合の考え方を思いますが、もっと歴史は長いわけです。そして茅野さんは、ホールの8つの用例を上げています。その7番目に、カントの使い方が述べられていました。
カントが『純粋理性批判』の「先験的弁証論」で述べた内容である、「仮象の論理学の批判」としての弁証論です。カントは形而上学と人間理性の弁証法を結び付けて、批判を展開しました。人間の理性は、答えのない問い(仮象)を生み出す素質があります。これを詭弁術や討論術としての弁証法(仮象の論理学)として、カントは批判します。そこから、カントのDialektikを弁証論と訳すようです。
「美学的判断力の弁証論」が扱うのは、「各人が自分自身の趣味を持っていて、趣味については議論できない」という命題と、一方で「趣味判断は個人的妥当性を持つものであってはならない、単に主観的根拠に基づくものであってはならない」という命題の対立の問題です。なぜなら、美学的判断は各自議論は出来ないけれども、単に個人的妥当性を持つものではない、つまり主観的普遍妥当性を持つと言われているからです。この趣味のアンチノミーの解決が扱われています。
沙羅の木 山茶花