宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

『判断力批判』を読む 6)構成➁:美学的判断力の批判(1)美学的判断力の分析論ⅰ)美の分析論

 朝晩はすっかり冷えるようになってきました。ただ昼間はまだ日差しがあると、24度くらいまで上がり、少し汗ばむ陽気です。今週から来週にかけて、お天気が崩れる日があるようで、最高気温が20度を切ります。これでは体調を崩しますよね。

 第1部「美学的判断力の批判」は、第1篇「美学的判断力の分析論」と、第2編「美学的判断力の弁証論」に大きく分かれています。そして、美学的判断力の分析論は、第1章「美の分析論」と第2章「崇高の分析論」に分かれます。

 批判というと、どうしても私たちは、反対・非難の意味合いを強く感じます。しかし、検討する、それも根本から、という意味で捉えればいいと思います。会議などでもそうなのですが、批判的意見はどうしても反対意見と捉えられます。ただ、批判というのは、論理的あるいは実証的に辻褄が合わない点を指摘することです。よりきちんと理解したいため、結論を受け入れるための批判があります。ただ、どうも意見を提示する側は、「批判」されることになれていない場合が多々あります。そして、異論は、批判的検討を踏まえて、自分の根拠を提示しながら別の見解を出すことです。

 第1篇「美学的判断力の分析論」は、趣味を扱っています。ここで再度確認しておきたいのが、カントの反省的判断力の先天的原理が「自然の合目的性」ということです。この自然の合目的性が、自然を美しいと捉えるときにどのように働いているのか。自然美の問題が中心なのですが、それを「趣味」という観点で分析しています。

 そして、趣味判断を4つの様式から分析しています。第1様式が『性質』、第2様式が『分量』、第3様式が『関係』、第4様式が『様態』です。趣味判断は、認識判断(論理的判断)ではなく、美学的判断と言われます。にもかかわらず、『純粋理性批判』の判断表A70・B95)の区分が出てきたので、ちょっと考えてしまいました。

 判断表というのは、カテゴリーを発見するための「導きの糸」としたものと言われています。カテゴリーとは、悟性(知性)に備わる概念(Begriff)のことです。「概念」は「把握する(begreifen)」という動詞から来ています。カテゴリーは、経験世界には存在せず、経験を可能にする概念のことです。概念というと、通常、言葉の定義という捉え方がされますが、カントの言うカテゴリーは、経験的概念ではありません。

 石川文康さんの『カント入門』(ちくま新書、1995年)で、因果性というカテゴリーが次のように説明されています。石川さんは、「私が石を手に持っていて、手を離すと石は地面に落下する」という現象を例に挙げています。経験概念は「私の手」、「石」、「地面」そして「落下」という運動です。これらを私たちはばらばらに知覚するのではなく、私が石を手から離したから落下した、と合理的に把握しています。私が手を放す行為を原因として、結果石が地面に落ちた、と捉えます。ここでの把握の形式である「因果性」の概念は、経験世界には見当たりません。というところから、これは私たちの側の知性の働きとしか言えない、というわけです。

 カントは人間の知性に備わっている認識を成立させる概念を、カテゴリーと言っています。このカテゴリーを導き出す「導きの糸」が、判断表なのです。森芳周さんは「カント『カテゴリーの体系』における判断表について」(大阪大学大学院文学研究科哲学講座『メタフュシカ』2001,32)で、カテゴリー体系の表に「量・質・関係・様相」という区分がされていて、これは『実践理性批判』や『判断力批判』においても維持されていると言っています。ですから、「カテゴリー体系の解明は、カント哲学における認識論だけの課題だけでなく、カント批判哲学の全体の解明へとつながる」(113)と指摘されています。カテゴリーの体系という術語は、『純粋理性批判』では使っていないそうですが、『プロレゴメナ』第39節に出てくるとか。

 『判断力批判』は、美学論として注目されることが多いのですが、やはり批判哲学の全体の中に位置づけられているわけです。

 

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