宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

判断力批判』を読む 7)構成➁:美学的判断力の批判(1)美学的判断力の分析論ⅱ)崇高の分析論 

 今日は大分冷え込んでいます。明日は午後からはお天気が回復する予想。11月らしい気温になっていますが、一気に寒さが加速しています。インフルエンザの感染も急拡大です。

 さて、第1部「美学的判断力の批判」は、美学的判断力の分析論と美学的判断力の弁証論に大きく分けられます。第2部「目的論的判断力の批判」は、目的論的判断力の分析論と目的論的判断力の弁証論に分かれます。さらに美学的判断力の分析論は、美の分析論と崇高の分析論に分かれます。この崇高の分析論に出てくるのが、天才論です。また、弁証論とは何か。弁証論に関しては別に書きたいと思います。

 美学的判断力の分析論で扱っているのが美の分析論では「趣味」でしたが、そもそも趣味という観点自体にまずは違和感があります。そして、崇高がなぜ関わってくるのかも分かりません。美の創造には天才の力が必要というのは分かりますが、全体のつながり方がやはり疑問です。これらは、一つひとつ考えていきたいと思います。

 崇高の分析論は、まず「数学的崇高」と「自然における力学的崇高」について考察しています。その後に、「純粋な美学的判断の演繹」が置かれていて、趣味判断の演繹について述べられています。「美学的判断は、すべての〔判断する〕主観に普遍的に妥当することを要求する」のであり、そのためには「なんらかのア・プリオリな原理に基づいていなければならない」。それゆえ、美学的判断は「演繹(このような要求の合法性の立証)を必要とする」(判断力批判(上)』206頁)と言われます。

 主観的な判断が、すべての主観に普遍的に妥当することを要求する根拠は何なのか、まさに気になる部分です。

         2022年11月14日 茨城県立歴史館イチョウ並木

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