宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ソクラテスの対話という手法

 ソクラテスによって、フィロソフィア(愛知)を語源とする哲学(philosophy)は本当の意味で始まったと言われます。彼自身は著作を残していません。その思想や生き様はプラトンやクセノフォンなどを通して伝えられています。なぜなら、ソクラテスには書き言葉への疑念があったからです。『パイドロス』(プラトン)の最終場面で、書き言葉への批判が述べられています。要約すると次のようになります。書き記されたものは、読者の問いに直接は答えません。そこにあるものは生きた知識ではなく、思い出すための言葉なのです。更に書かれたものは、その読者を選ぶことができません。誰かれなく、書き言葉を手にした人にさらされます。そして不当にののしられても、自分だけの力では身を守れません。書いた人の力がなければ、書き言葉は自分を助けることができない、と言われます。

 彼の哲学的行為は対話による魂の吟味でした。書かれた言葉と兄弟関係にあるけれど、それに比べてより優れた力強い言葉があって、それによってこそ魂の吟味がなされるのです。

 「それを学ぶ人の魂の中に知識とともに書きこまれる言葉、自分をまもるだけの力をもち、他方、語るべき人々には語り、黙すべき人々には口をつぐむすべを知っているような言葉だ」(パイドロス』276A

 上の部分の後で、ものを書くのは、慰みのためにする、とも言われます。いずれ忘れてしまう時に備えて、また同じ道を歩むすべての人のために覚え書きを蓄えるのだ、と。これはプラトンがなぜ書物を書いたのか、の説明だと言われています。パイドロスが、それはくだらない慰みに比べてなんと美しいことかと応じると、ソクラテスは即座に次のように応答します。

 もっと美しいのは、「ひとがふさわしい魂を相手に得て、ディアレクティケーの技術を用いながら、その魂の中に言葉を知識とともにまいて植えつけるときのことだ」(276E)と。その言葉は更に新たなる言葉を植え付けられた魂の中に次々に生み出していくような、そんな一つの種子を含む言葉だというのです。

 ソクラテスが今一つ「私」の中に入ってこないのは、ソクラテスの語りが「私」に対するものではないからなのです。それぞれの対話は、それぞれの相手に向けられた言葉であり、読者は時代と場所を隔てた遠くからの傍観者です。もちろんテーマによっては、引き込まれるものもあります。『クリトン』はそういうものの一つです。

 ただ、書かれた言葉からは、確かに、その生きた思想の力を得るのは難しいと感じます。多くの本はともあれ読んだ、というもの。部分的には引き込まれるもの、分かるものがあったとしても。

 ソクラテスは、人の魂の中に言葉を植えつける力を持った人でした。そういう言葉を身につけている人だったわけです。彼は自分の中で著述していたと思います。そのぎりぎりのところまで探求した末に、「知らない通りに知らないと思っている」という地点にいます。そこまでの熟慮探求を携えて、彼はアテナイの人々の魂の世話に向かったわけです。対話相手の持っている混乱と不整合を一緒にあからさまにすることで、最初に持っている信念から解き放ってやること。自ずとより矛盾のない考えがその人の中にあるはず、という信念のもとに。

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