宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

客観的な人

 客観的な人ってどういう人でしょうか。観察力があり、自分の感情や観方に囚われずに、相手の立場に立って理解し、矛盾なく総合的に判断できる人。(゜-゜)、これってカントの常識(普通の人間悟性)の規準と一致した判断能力を示せる人ということのようですね。

 自我レベルでの主観性の高い人、恣意性の高い人ほど、もしかしたら本人的には幸せ感が大きいかも、と前回で書きました。でも、人生の味わいは、客観性を持たないと訪れないのかも、とも。では、客観的とか客観性があるというのはどういうことでしょうか。

 トマス・クーンは、主観的という言葉は、「客観的」と対置されると同時に、「裁定可能」と対置される言葉、すなわち「裁定不可能なもの=趣味の領域」と言います。主観的は、裁定不可能、あれこれ言われる筋はない、の世界ですから、確かに幸せ感は保たれ易いでしょう。

 では、裁定可能性はどのように成立するのでしょうか。まず、鏡モデルで考えてみます。つまり、「鏡に写すこと」「外的実在との疑い得ない絆によって当事者たちに共通の地盤を提供すること」。この共通の地盤によって、裁定可能になります。通常科学的といわれる分野、数量化が可能な分野は、この共通な地盤によって裁定可能になり、客観性が保たれます。

 数量化が必ずしもできない分野の客観性は、どのように考えられるでしょうか。それが「意見の一致」としての客観性と言えます。例えば、同じ状況のもとでは同じ様に振るまうものだ、が抽象的で行動の役に立たないと批判できたとして、だからすべては状況の中での個別的判断行動であり、客観性は成立しない、という必要はない、という考え方です。その都度の状況の中での合意形成や複数の理に適った理由付け、という客観性の基準の立て方があります。

 ニーチェは、「<客観性>とは、<関心なき直観>と解されてはならず(こういうものは没理にして背理である)、むしろ知性の向背を意のままに左右し、これを自在に懸けたり外したりできる能力と解さるべきであり、それによってこそ人はさまざまな遠近法や情念的解釈の差異を認識のために役立てることができるのだ」(『道徳の系譜』第三論文12)と言いました。          

  人間や人生の事柄を判断するとき、確かに多様な視点があるし、判断も微妙に異なってきます。それでも、「人間通」という言葉に表現されるような、ある種客観的な視点があります。コモン・センスという言葉が表現してきたものは、そういう共通感覚のことであり、その成果であったと言えそうです。

 そういう人がより幸せなのかどうか。幸せをどう考えるかにもよります。人間は「知らないことも知っている」という無意識の世界にもどこかで開かれていると考えるとき、私には、恣意的な意味での主観性の強い人は、どこかに不安を抱え易いかもしれないと感じられます。

 アガサ・クリスティ『春にして君を離れ』のヒロインは、有能で責任感が強く、世間体を気にする人でした。周りを支配してしまうそういう女性。自分の善良さと有能さを確信していて、実際そうなのですが、それが周りも自分も縛ってしまう。その結果、周りが息苦しさを感じる。待てない、観ていられない、(自分のことも)信じられない結果、あれこれ手を出してしまう。でも彼女は本当はどこかで知っていた。それに目をふさぎ続け、一瞬周りが観える状況に身を置いて、観えたのですが、結局蓋をしてしまいます。楽な馴染んだ世界に戻って、「幸せな私」を取り戻します。クリスティの、シビアな人間観察力を感じた一冊でした。

 客観的であるということは、一見すると、あまり幸せではないのかもしれません。でも「ああそういうことか」と分かる瞬間に、自分が解放されて行く感覚があります。それもまた、別種の充足であり、開放だろうと思います。

h-miya@concerto.plala.or.jp