宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

日常生活の中の「裸の事実」

 看護や介護という分野での「科学的」とはどういうことかを考えています。戸田山和久さんの『「科学的思考」のレッスン』(NHK出版新書)に、科学的説明はできるだけ「裸の事実(Bare Fact)」を減らす試みだ、という表現が出てきました。これは哲学で言う「ブルート・ファクト(生の事実)」に当たります。なんか、そうか、そういうことかと納得しました。

 哲学でbrute factというと、それ以上さかのぼれない「事実」というような意味です。例えば、「無から有は生じない」には理由はありません。西洋哲学では大前提です。

 現実の生活の中でも、この「裸の事実(bare fact)」(それ以上説明できない事実。そういうものとして受け入れるしかない事実)はたくさんあると思っています。哲学における究極の事実、という考え方から、日常生活の「裸の事実(bare fact)」という捉え方に繋がりませんでした。常識という日常生活の土台という考え方はしていました。ただこの常識とどう向き合うか、という時に手をこまねいていた、とも言えます。デカルト流の保守的生活訓が無難なのかなぁ、と思っていました。

 デカルトの自分用の当座の準則というのは、『方法序説』第三部に出てきます。デカルトの場合は、哲学の理論的作業の裏にある実生活の規則であって、意識的努力を理論的作業に傾注するための取りあえずの方針です。

①第1の格率:自国の法律と習慣に従い、自分の属する社会の人々の最も中庸を得た意見に従うこと。

②第2の格率:私の行動において、できる限りしっかりした、またきっぱりした態度を取ること。

③第3の格率:運命により自分に打ち勝つことに勤め、世界の秩序よりはむしろ自分の欲望を変えるように勤めること。

 しかし、看護や介護が向き合う対象者の人間にとって、生活は仮のものではなく、自分を充実させる生きる場そのものです。患者や要介護者を支えるというのは、彼らそれぞれの生活の充実を前提としています。

 さて、看護の場合は、「健康状態の肯定的変化を目指す援助」が看護実践の中心を構成しています。そして、その対象である患者は、自らの意思と感情、価値観を以て自分の健康状態と向き合っています。個別特殊性が高いので、科学のいわゆる再現性という要件に合い難い。

 介護の場合は、さらに中心を構成するものが何か自体を明確にし難い部分があります。いわゆるADLActivities of Daily Living 日常生活動作)支援が手一杯で、QOL(Quality of Life 生活の質・生命の質)まで視野に入れられているかどうか。それが、介護の現状は日常生活動作の支援であって、日常生活の支援になっていない、と言われるゆえんです。現場においても、介護の中心を構成するものが何か、明確でないと思います。

 日常生活の支援ということ自体、どういうことを意味するのか。

 日常生活の中の「裸の事実(bare fact)」は、構成されたものですが、それは自覚的ではなく身体レベルに組み込まれています。歴史・文化的背景の中で醸成されたもので、それによって生活が動いています。いわゆる常識も日常生活の中では、これに当たると思います。

 社会科学はここの部分に切り込みますが、通常の生活はそれをやっていると回らないので、常識を前提に動きます。でも常識の持っている時代に遅れていく部分は、時に軋轢を生みます。

 介護の世界では、この生活の中の「裸の事実(bare fact)」とどう対応していったらいいのか。科学的ということが介護でも言われるようになっています。科学的ということが、「裸の事実(bare fact)」を減らす努力だとするなら、介護においても要介護者の行動や心を説明し予測することを、勘に頼るのでなくどうやって行くかが問われていると思います。

h-miya@concerto.plala.or.jp