宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

観察と推論の関係

 シャーロック・ホームズは人並外れた観察眼を持っています。そこから色々推測して、対象者の職業や好み、癖、その時の悩み事などを見抜きます。ナイチンゲールは「観察」の重要性を指摘しました。観察を通して患者の病態を捉えることで、それを改善するための対応行動が取れます。しかし、観察とはただ観ることなのでしょうか。例えば、写生をするとき、当然観察が大切ですが、見ているだけでは絵は描けません。どういう風に何を見るのか。そして観たものをどういう風に描くのか。

           f:id:miyauchi135:20210413001549j:plain 

     ジャストロウからヴィトゲンシュタインが借用した図(『哲学探究』第二部ⅺ)

 アヒルにも見えるしウサギにも見えるという、アヒル・ウサギの図があります。そう思ってみるとどちらもその図に読み取れます。しかし、二つを同時に見ることは出来ません。私たちが何かを見るとき、あらかじめ多くのことを知って見ています。これは両方をあらかじめ知っていて、それを読み取ろうとするとどちらも見える。

 さて、そこに問題が読み取られ、それを解決するためには、問題の原因の仮説設定がされます。この観察と仮設との間に直接の因果関係はなく、そこに見る側の見方(バイアス)がかかると言われます。観察して、問題を見い出し、その解決のための原因を仮説として設定する。ウサギを見るかアヒルを見るか、あるいはどちらを重視するか。

 18世紀の燃焼理論がそのいい見本を提供してくれます。これは「燃焼とはフロギストンという物質の放出の過程である」という理論で、燃素説とも言われます。後に、酸素説に取って代わられますが、100年以上も多くの科学者から支持されていました。どちらの説も理性的観察者が主張したわけですが、異なった背景を持つことで、同じ科学的証拠から違った結論が導かれます。

 これが絶対の正解、というのはないということです。ただ何でもありではなく、よりよい仮説とよくない仮説があるわけです。その基準は何か。いろいろ言えると思いますが、理に適っているかどうか、バイアスが含まれにくい手法をとっているかどうか、より広範な現象を説明できるかなどが言えるのかもしれません。

f:id:miyauchi135:20210413004350j:plain

              3月31日「はまぎくカフェ」の会場の花

h-miya@concerto.plala.or.jp