これは板倉聖宜さんの本の題名でもあります。『科学的とはどういうことか いたずら博士の科学教室』(仮説社)を読み始めました。なかなか面白いです。でも、そもそもなぜこういう問いが出てきたかというと、介護の専門職としての定義づけを考える中で、「専門職とは、科学的理論に基づく技術の体系を持つものであること」(仲村優一)という文言に出会ったからです。仲村優一さんは著名な社会福祉学者です。
「科学的理論に基づく技術の体系」というのは、経験則にのみ拠らない専門的知識・技術を言っています。技術とはそもそも知識に基づく制作ですが、そこにあえて科学的理論に基づく技術と定義することで、専門性を打ち出しています。
じゃあ科学的ってどういうことなのでしょうか。板倉さんの本は取りあえず置いておいて、信原幸弘さんが物語りを科学と対比して考察している部分を紹介しておきます。信原さんは、物語にはフィクションとノンフィクションがあるとします。ノンフィクションは事実を語りますが、その語り方は科学とは異なります。
物語には登場人物がいて、その行為が語られますが、科学は人間の行為を描きません。科学は人間の行為を描くにしても、物体が自然法則に従うのと同じ描き方をします。物語の人間の行為は、理由や信念、感情をともなった行為です。
「科学が描く世界は事物が因果的な法則に従って変化していくだけの世界である。あるいは、因果的な法則が不明な場合は、事物が偶然変化したとされる世界である」(信原幸弘『情動の哲学入門』勁草書房、225頁)
次に挙げられているのが物語りの視点性と科学の無視点性です。科学は「どこでもないところからの眺め」(トマス・ネーゲル)を描いているというのです。さらに、物語の視点性は必ず評価的なものを含んでいます。視点には事実認識的な視点と評価的な視点があります。この評価的視点を欠くと、事実報告であって物語とは言えないと言われます。
まとめると、科学の持つ法則性(因果律に従う)と無視点性は、誰でも予想し、実験し、観察し、検証できるという再現性を意味します。「誰が」は重要ではなく、「何が」「どのように」には法則性があり、誰でも再現できるし、説明可能ということです。
この考え方を使って先ほどの定義を考えるとどうなるでしょうか。介護の対象である日常生活や日常生活動作の支援に、科学的知見に基づく技術で対応する、ということはどういうことでしょうか。要介護者は人間であるという点で単一ですが、その人の日常生活というのは独自性に満ちています。単一なものは科学の対象になりますが、独自なもの、ユニークなものは科学の対象になりません。独自性とどう向き合って必要性を看てとるのか。ここの部分は科学の対象以前のもの、あるいは別の姿勢で向き合う必要がある気がします。