宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

ハイデガーのSorge(関心・気づかい)3.

 昨日は小雨で肌寒かったです。今日は曇りで時々晴れ間が出ていますが、寒いです。明日からは気温が上がるとの予報。暖かくなると、草の伸びが速くなります。そうなると、草と格闘の時期に突入です。「晴耕雨読」という言葉が浮かびました。「晴れた日には田畑を耕し、雨の日には読書をするという、悠々自適の生活」と出ていました。成程。しかし、草取りに追われる生活は、悠々自適とは、言い難いなぁ。

 さて、三浦秀春さんの論文では、ハイデガーのブルダッハへの言及の殊更の簡潔さが問題にされていました。ハイデガーがブルダッハの論考から得たものは、„cura”における二重の意味だと三浦さんは捉えています。ただそれをハイデガーは「被投的投企」という実存論的解釈に持ち込むことで、「二重の意味」もそのために利用されている印象が生じている、と。

 ハイデガーはブルダッハの二重の意味に関して次のように書いています。

ブルダッハは、『クーラ』という術語の持つ二重の意味に注意を促し、それによるとこの語は「不安げな努力(ängstliche Bemühung)」を意味するばかりでなく、また「細心(Sorgfalt)」、「献身(Hingabe)」をも意味します。(存在と時間』(中)140頁) 

 これに対し、ブルダッハ自身の論考での該当箇所は次のようになっているそうです。以下は三浦さんの論文からの引用です。

「‛cura’というラテン語は二重の意味を含んでいる。この語は、『憂い(Sorge)』、『煩い(Besorgnis)』、『気の休まらない苦労』とともに『愛惜(Fürsorge)』、『優寵』、『献身』をも意味している。」(S.49)

 ハイデガ―の言及で省かれている Sorge、Besorgnis、Fürsorgeは、ハイデガーの『存在と時間』の中で、実存論的=存在論的概念として重要な役割を果たしています。ブルダッハの二重の意味は、負の価値を持つ「日常的心労」に類する意味と正の価値を持つ「道義的苦労」に当たる意味を対比させている。この対比は、ハイデガーの現存在の分析論における「日常性」(非本来的頽落態)と「本来性」の対比に影響を与えている、と三浦さんを言います。

 ハイデガーは現存在(人間)とは、もののような配慮の対象ではなく、「〔気づかい世話する〕顧慮のうちにある」(存在と時間』(上)232頁)と言います。そして顧慮には二つの側面があることにも言及しています。第一のものは、他人から、≪Sorge≫(心配という意味合い)を除いてやって、手元のものへの配慮のように、配慮してかれのために肩代わりして背負ってやる。その結果、かれは依存的にも被支配的にもなる、と言われます。これは≪Sorge≫(心配)を取り除いてやるような顧慮です。

 これに対し顧慮の持つ第二の可能性が語られています。

他人のために尽力するというよりもむしろ、この顧慮が他人に対してその実存的な存在可能の点において飛んで見せる〔模範を示す・率先垂範する〕ことに成り立つのであって、これは他人のために「心配(ゾルゲ)」を除いてやるためでなくて、むしろ初めて本来的にゾルゲをゾルゲとして返してやるためです。本質的に本来的関心(ゾルゲ)――すなわち他人の実存に関するのであって、他人が配慮している何物かに関するのでないこの顧慮は、他人を助けて、かれの懸念(ゾルゲ)を自らにおいて見通させ、こうして懸念に対して自由になるようにさせるのです。(存在と時間』(上)234頁

 顧慮は、現存在の存在の構えとして明らかにされています。そして、この両極端が、尽力的=支配的な顧慮と垂範的=開放的顧慮で、この間に日常的相互存在が保たれていて、多様な形態をなすが、それぞれの分析はこの書の研究範囲を超えると言われています。 

 この辺り、ケアの在り方を考える上で参考になります。

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