宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

触覚的身体から「私」が成立

 年末の時間はなんとなく忙しないです。買い物に行くと、クリスマス商品と正月の商品が混在していて、それも慌ただしさを感じさせられるのかもしれません。こういう時に、考えてることではないかもしれないのですが、忘れないうちに書いて置くことにします。

 「私」はどういう風にして成立するのか、の続きです。え、「私」という感覚は、そんなの当たり前じゃない、と思うのが通常の感覚でしょう。記憶でしょうか? では、認知症状を呈している人は、「私」の感覚を無くしているのか、というとそうではないと思います。とすると、この「私」のまとまり、継続性を支えているものは何なのでしょうか。身体性の問題が大きい気がします。

 感覚・知覚を通して外界が与えられますが、視覚や聴覚においては対象と距離があります。ところが、触覚において対象は身体に局所化されています。知覚において物と感覚が共在しているのが触覚なのです。私たちが通常、自分を絶対的な「ここ」(あらゆる方位付のゼロ点)として、その周りにさまざまの事物を配置しながら作り上げる空間は、身体を媒介するとしか考え得ないのです。

 そしてここにこそ「自我の所与性」の根拠があります。自分の眼や手足を自分の身体の特定部位に位置づけ、物の様々な性質を感じ、その感覚を自分の身体に局在化させるのは触覚の働きによります。これを通して私たちは、事物を上下左右、遠近に配置できるようになり、「私」を位置付けることができるようになるのです。このような触覚的身体があって、初めて主観が主観自身を振り返り、主観が現実の「私」「自我」になります。

 メルロ=ポンティは後期フッサールの思想をいち早く吸収し、そのデカルト主義を払拭し、人間の存在を身体的実存としてとらえ、「われ思う」に先立つ「われなし能う」として、世界に内属する人間の在り方を捉えています。そして身体に定位される知覚能力の分析を通して、他人の実存がまず感覚的位相においてとらえられるべきことを論じました。では、この他人と共に私たちは世界を共有しているという感覚(センス)はどのようにして確信されているのか。 

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