宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

身体と「私」の構成

 稲田朋美防衛相が引責辞任し、民進党蓮舫代表も辞意を表明。政治の場面がバタバタ動いています。8月27日には茨城県知事選もあります。政治がらみの人間の動きは関心を引くようです。政策そのものの議論より、そこに絡む人間の問題の方が、とっつきやすいのか、関心を引くのか。まあ、それはそれとして、「私」と場所性の問題について考え始めました。「私」が「私である」ことは、普通は自分にとって明確ですが、これはどういうことか。

 デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」という有名な言葉がありますが、これは「思う私」の「ここ」と「今」における実在を直観する直接性を言っています。でも本当に思考する主体としての「私」の存在は自明なのでしょうか。これは繰り返し問われてきました。「私」が「ここ」だけでなく、「あそこ」でも考える主体になってしまう分身体験に悩む人がいます。自己像幻視とかドッペルゲンガーと言われますが、普通の人でも見ることがあると言います。リンカーンエリザベス1世芥川龍之介などが自分のドッペルゲンガーを見たという記録も残っています。また、19世紀のフランス人エミリー・サジェは、同時に40人以上の人々によってドッペルゲンガーが目撃されたと言われています。

 通常の自己像幻視は視覚にのみ現われ、短時間で消えて、独自のアイデンティティを持たないようですが、まれな例としてホートスコピーと呼ばれる「私自身」をまねない自己像が見えたり、「私自身」と交流する症例も報告されているそうです。脳の側頭頭頂接合部に脳腫瘍ができた患者が自己像幻視を見るケースが多いと言われます。ここはボディーイメージを司る部分で、機能障害によって自分の肉体を認識する感覚を失い、肉体とは別のもう一人の自分がいるような錯覚をすることがあると言います。また自己像幻視の症例のかなりの数が、統合失調症と関係している可能性が言われています。ただし、第3者によって、それも複数人に目撃されるドッペルゲンガーの例は、脳の機能障害では説明がつきません。共同幻視? 

 デカルトの「われ思う、ゆえにわれあり」は、世界の中心に一人で光を放つ中心点を確保すること、明晰な視点を世界の中心に一つ確保することとも解釈できると言われます。その中心点の光が神や天使でなく、考える人間のもので、世界を光のまなざしの中で再構築すると言うことです。しかし、ヴィトゲンシュタインは『論理哲学論考』で「思考し表象する主体は存在しない」(5・631)と書いています。「主体は世界には属さない。それは世界の限界である」(5・632)、「世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか」(5・633)と問いかけ、よく知られている眼と視野の図を書いて見せます。世界を対象化する特権的眼差しのイメージを、ヴィトゲンシュタインは拒否します。

 フッサールも、見ているものは触りうるもので、それは身体との直接的関わりを示している。見ていることからだけ自分の身体を現れ出させることはできないだろう、単に見るだけの人が自分の身体を見るとは言わないだろう、と『イデーン』の中で書いています。私たちは見るだけの行為から、それが「自分が」見ているという結びつけ方はできない、自分の身体という捉え方は見る行為でなく、触覚から生じるということだと言っています。

 ヴィトゲンシュタインフッサールも、「思う」ことの存在からは「自我」の存在を導き出せないと結論しました。ヴィトゲンシュタインは、その結果として、「自我」は存在しないと主張し、フッサールはどうやって「自我」の存在を根拠づけるかを考えました。そこでやったことが、徹底的に「意識」を解明する作業でした。そしてそこから触覚的身体を介して、主観が現実の「私」「自我」になる構造を取りだしました。この作業については、次回、もう少し詳しく考えておきたいと思います。

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