宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

立ち止まることの意味

 今日は青空が広がって、気持ちいい一日でした。テレビをつけたまま障子貼りをやりました。「ゴゴスマ」で札幌の爆発事故を扱っていましたが、コメンテーター武田邦彦さんの、「スプレー缶は使い残しがある場合、そのまま回収すべき」はとてもよく分かりました。そうか、スプレー缶ってそんなに危険だったんだ、と納得。私も使い残しのものの中身を外で一生懸命捨てましたが、確かにプロパンガスをシューと外で捨てたりしないです。司会者はただ番組の流れを気にするような発言をしてましたが、内容をきちんと理解する立ち止まりがなかったなぁ。

 テレビだけでなく、どうも私たちの日常は立ち止まりを拒否する傾向があります。仕事も慣れてくると、流れを阻害する要因を作る人にイラついたり。本当はそこに発見があるかもしれないのですが。つい上手く行っていればいいと思ってしまう。危ないですね。

 三好春樹さんが提唱している「遊びリテーション」。確かにレクの中で利用者さんが楽しむ姿は、介護する側にもうれしい発見があります。ただこれは授業についても言えることですが、そこで起こっていることを評価判断できないと、ただ楽しかった、で終わってしまうと思います。そして、利用者さんが「楽しかった」と盛り上がってくれると、良かった良かった、で終わってしまう。

 立ち止まるきっかけは至るところにあります。ただ、それをリスク管理における「ヒヤリハットは大事故を防ぐ」的な発想で考えると、ついできるだけ避けたくなります。ヒヤリハットを見逃さないことが大事であることは分かっていても、それが大事故を防ぐためというのは、やはり負の評価になっています。立ち止まることそのことの意味、というのがあると思います。ヒヤリハットはそのきっかけの一つです。

 空の青さに「ハッと」魅せられて立ち止まる。そのとき、私たちは心が解き放たれます。問題を抱えているとき、あるいは自分の発想と異なるものを突き付けられたとき、「ハッと」立ち止まる。それらはすべて、別の視座の流入だと思います。そのときの心の状態は必ずしも心が解き放たれる、というものではないかもしれませんが、囚われへの気づきの瞬間だと思います。惰性化する動き(心も含め)を修正するには、まずは立ち止まること。一息つくことで、少し視点をずらすことで、別のものが見えてくる。それは、決して嫌なことでも、しんどいことでもなく、人生の味わいのようなものにつながる。

 「ハッと」立ち止まることは、しまったと思う負の側面だけではなく、面白いと心躍る、心の底から歓びが吹き上がるような、そういう経験でもあるのではないでしょうか。立ち止まることの豊穣さをもっと受け止められる社会であって欲しい。そういう気がします。 

h-miya@concerto.plala.or.jp