宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

常識(コモン・センス)を疑うさじ加減

 常識は必要不可欠なものですが、ときにあまりに当たり前でつまらないものになったりもします。自明過ぎて、何が問題なのか分からないこともあります。「初詣はどこに行く?」という発言に関しては、暗黙の決めつけが何かは分かりました。初詣は行くもの、という前提(日本人にとっては常識的なもの)が暗黙裡に含まれている発言です。

 「買ってきたキャベツに青虫がついてたけど、八百屋に文句言ったほうがいいかな」発言の決めつけは何か、一瞬、考えてしまいました。キャベツの青虫は欠陥商品という決めつけだ、と気が付くまでに、ちょっと時間がかかりました。私は文句は言わないですが、言うかどうか問題にすることもあると思い込んでいます。

 W.ブランケンブルクは『自明性の喪失』(みすず書房、1978年)の日本語への序で、次のように述べています。

 「われわれは、魚が水の中に生きているように『自然な自明性』の中に生きているのではありません。人間には、もともと自明性と非自明性とのあいだの弁証法的運動がそなわっているのです。疑問をもつということは、われわれの現存在を統合しているひとつの契機です。ただしそれは、適度の分量の場合にかぎられます。分裂病者ではこの疑問が過度なものとなり、現存在の基盤を掘り崩し、遂には現存在を解体してしまいそうな事態となって、分裂病者はこの疑問のために根底から危機にさらされることになってしまいます。分裂病者を危機にさらすもの、それは反面、われわれの実存の本質に属しているものでもあります」

 適切さ、いい加減の哲学って、それぞれの生き方の中で身に付けていくものなのでしょう。批判精神の大切さが言われます。ただ、その度合いは、場面によっても問題によっても異なるでしょうし、そこを見極めていくにも、各人の個別性が働きます。

 カントは人間悟性(常識)の基準の格律を、1)自分で考えること、2)自分を他者の立場に置いて考えること、3)自分自身と一致して自己矛盾のないように考えること、としています。

 私は、この3番目は難しいなぁと思っています。流れに任せていてもいいのかもしれないとも思うからです。自然に統合していくものもあるのではないかと考えるからで、そこを意識的にずっと考える必要はないのではないか、と今は思っています。

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