ハイデガーの『存在と時間』(1927年)は、存在そのものへの問いを現存在(人間)を通路として問う、というものです。そのために、彼は実存哲学者に分類されますが、彼の問いの本質は「存在」とは何かと言うことでした。ハイデガーの存在そのものへの問いは、存在するもの゛das Seiende” への問いではなく、存在するものを存在させるところの存在゛das Sein” とは何かという問いでした。
これは、ソクラテスの「徳とは何か」の問いを思い起こさせます。ソクラテスが問題としたのは、諸々の徳ではなく、徳を徳たらしめるものは何か、ということでした。どういうことか。例えば「勇気」というもの。通常私たちは「勇気がある」ことは徳を身につけていると考えます。しかし、冷徹な暗殺者(ゴルゴ13)は臆病とは無縁です。勇気は臆病の反対と、やはり私たちは考えています。では、ゴルゴ13は勇気ある人と言えるのでしょうか。どうも違和感があります。これが勇気を徳たらしめるものは何か、(通常言われる)徳を徳たらしめるものは何かという問いなのです。
さてハイデガーの現存在(人間)は存在論的には関心・気遣い(Sorge ゾルゲ)であり、「世界に対する現存在の存在は、本質的に配慮(Besorgen ベゾルゲン)」と言われています。そして現存在自身は、「〔気を配られ〕配慮されるのではなくて、〔気づかい世話をする〕顧慮(Fürsorge フュアゾルゲ)のうちにある」と言われます。
ハイデガーを単純にケアの哲学者ということはできないと思います。しかし、ケアとは何かを哲学的に解明するとき、ハイデガーの現存在分析から、示唆されることは大きいのではないでしょうか。ケアは実践的側面が前面に出ますが、その根本のところを押さえないと、単なる技術的方法論になります。現在の介護職が、日常生活動作の支援に明け暮れてしまっているように。
ハイデガーの現存在分析は手ごわいですが、少しずつ考えていきたいと思います。