ここのところ、お天気も安定していて、桜がきれいです。西洋シャクナゲも花が開き始めました。
2021年4月2日庭の西洋シャクナゲ
今、ハイデガーのSorge(関心・気遣い)の解釈をしている論文を幾つか読んでいます。ハイデガーは「現存在(人間)の存在」をSorge(関心・気遣い)と規定しています。これは何ら倫理的意味合いを持たない規定です。
現存在は、存在論的には、関心(Sorge)だからです。世界・内・存在は、本質的に現存在に属しているから、世界に対する現存在の存在は、本質的に配慮(Besorgen)なのです。(『存在と時間』(上)112頁)
「„Sorge”の周辺―ハイデガーと『ファウスト』―」(1991年、三浦秀春著)では、ハイデガーがどこからSorgeの着想を得たのかを考察していました。
Sorgeは『存在と時間』(1927年)の中心概念ですが、ドイツ語の日常用語でもあり、存在論的概念として今一つ掴みづらいものがあります。第42節に、有名なクーラの寓話が出てきますが、これもどういう関連があるのかが分かり難いものです。通常、エピソード的に捉えられます。私も、なぜここに寓話が必要なのか、今一つ納得いきませんでした。
三浦さんは、このクーラの寓話こそが、現存在の存在をSorgeと着想させた、と言っています。それなら、当然入れる必要がありますね。ハイデガーはK・ブルダッハの『ファウストとゾルゲ』という著作において「偶然」にクーラの寓話と出会って、その中に現存在をゾルゲとする例証を見い出した、と三浦さんは解釈しています。しかし、(「偶然」であっても)それは単なる「思い付きではない」ことが、ハイデガーによっても言われていることの重要性も指摘しています。
これに対して、ハイデガーのゾルゲは『存在と時間』以前、以後にも出てきているというのが、「ハイデガーにおける気づかい(Sorge)をめぐる一考察」(2012年)で田邉正俊さんが展開している主張です。田邉さんによると、クーラの寓話は1925年夏学期の講義「時間概念の歴史への序説」で、既に取り上げられています。ただここでの取り上げ方がどのようなものかは、私には分かりません。
そして、その7年前(1918年)に、アウグスティヌスの研究の中で、気づかいの現象に直面していたと、ハイデガー自身が回想しているようです。まだこの段階では、ラテン語curaの動詞形の不定法curareが「事実的な生の根本性格」と位置づけられ、sorgenではありません。後にSorge(関心・気づかい)の存在的な現れと位置づけられる「憂慮すること(Bekümmertsein)」と同等視されていて、過渡的性格を持っています。このcurareがsorgenと同等視されるのを、田邉さんは1922年の「アリストテレスの現象学的解釈」(いわゆる「ナトルプ報告」)においてとしています。ここでは、「生とは気づかうこと(Besorgen)である」という表現が多数みられるようです。
クーラの寓話が既に1925年の講義で取り上げられていたということは、この寓話にハイデガーが読み取ったものの意味深さがあるようです。ブルダッハの『ファウストとゾルゲ』(1923年)での寓話との出会い(「偶然に出会う(stoβen)」三浦解釈)が、ハイデガーに人間存在の存在をSorgeと閃かせた。ただ、stoβenは「ぶつかる」とか「衝突する」という意味もあります。他の訳者はこれらの意味合いで取っています。
ハイデガーは、クーラの寓話も人間の生をSorgen/Sorgeと捉えることも承知していたが、それがブルダッハの論考を通して「現存在の存在をSorge」と閃かせた、ということはあると思います。これが「前存在論的証拠(クーラの寓話)にぶっつかりました」とわざわざハイデガーが書いているとも読めると思います。ブルダッハの論考を読んでいないので、あくまで推測ですが。
ブルダッハは、クーラの持つ二重の意味に注意を喚起しています。そしてセネカを引用して、神の善が神の本性を完成するとすれば、人間の関心(クーラ)が人間の本性を完成するということを書いているようです。
それによるとこの語は「不安げな努力(
ängstliche Bemühung)」を意味するばかりでなく、また「細心(Sorgfalt)」、「献身(Hingabe)」をも意味します。そこでセネカもかれの最後の手紙(書簡、124)で左のように書いています。「‥‥‥他者すなわち人間の関心(クーラ)が人間の本性を完成します」(『存在と時間』(中)140頁)
ハイデガーもここを強調したかったようです。上に続けて、次のように書かれています。
人間の<完成(perfectio)>すなわち人間がかれの最も自己的な諸可能性に向ってのかれの展(ひら)けた存在(投企)において、かれが在りうるところのものに成る(Werden)ということは、「関心(Sorge)」の「おこない(Leistung)」です。しかし関心は、この存在するもの〔人間〕が、配慮された世界に引き渡されている(被投性)というかれの根本方式(Grundart)を、根源を等しくして規定しています。「クーラ」の持つあの「二重の意味」は、被投的投企という本質的な二重構造の形をとるひとつの根本構えを意味します。(同書、40-41頁)
クーラに被投的投企という実存論的解釈を、ハイデガーは読み込んでいます。しかし、もともとクーラ(ケア)は一方で重荷、心配、不安、困難という人生において人が負わされているものを意味します。もう一方で、それは他者の幸福への援助を意味する肯定的側面を持ち、気遣いとしての、注意深さ、思いやり、真面目さ、熱意という内実を持ちます。後者の肯定的意味でのクーラは、歴史の中で見失われていましたが、それを再発見したのは、ブルダッハだったと三浦さんは解釈しています。だからこそ、ハイデガーは「現存在の存在」をSorgeとして、基礎存在論を展開する見通しを得たのだろう、と。
さて、このゾルゲの「人間の救い」となる力に、ブルダッハの前に気づいて作品にしたのがゲーテです。『ファウスト』は、ゾルゲの人間の救いとなる力を具現化した作品の可能性が高いと言われています。『ファウスト』の中でのゾルゲの描かれ方が、『存在と時間』の中でもリフレインされていると、三浦さんは指摘します。そして、「『存在と時間』は、『ファウスト』の哲学編を試みたものであると言っても過言ではない」と言います。この指摘は、ちょっと驚きでした。
ハイデガーの「現存在の存在はSorgeである」ということを引用で締めくくっておきたいと思います。
実存論的=存在論的解釈は、存在的解釈に比べて、たんに理論的=存在的な一般化にすぎないといったものではないのです。‥(筆者中略)‥一般化は、不断に登場する存在的な性質でなくて、そのつどすでに基礎に存する存在の構えを意味します。この構えが初めて〔人間という〕、この存在するものが存在的にクーラとして呼びかけられることができることを、存在論的に可能にしています。「生活上の煩い(Lebenssorge) 」や「献身(Hingabe)」を可能にする実存論的な制約は、根源的な、すなわち存在論的な意味において、関心(Sorge)として理解されるほかありません。(『存在と時間』(中)141頁)
ケア論の根拠に『存在と時間』が持ち出される訳が分かります。ただ、ハイデガーは、存在的な諸々のケアについて論じているわけではないのですが。
2021年3月31日 コミュニティーセンターから