宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

『判断力批判』を読む 22)趣味判断「様態」:共通感ⅲ)

 台風の影響でしょうか、時折、サァーと小雨が降りました。風はあるのですが蒸し暑いです。

 美を判定する能力である趣味判断は、主観的判断ですが普遍妥当性を要求します。それはこの判断が、個人的関心と関りがないこと(無関心性)とその判断が認識の一般的在り様として、構想力と悟性が自由に戯れ快が生じるという表象作用の普遍性から普遍的伝達可能性が生じるからと言われます。そして認識構造に基づくこの普遍的伝達可能性は、さらに共通感によって補強されます。

 私たちはある種の判断において何かあるものを美と判断しますが、これは感情の判断であってかつ普遍的であることを要求します。ここに一種の共通感が前提されるというのです。

 我々は、ある種の判断によって何か或るものを美と断定する、そしておよそこの種の判断においては、ほかの人達が我々と異なる意見を持つことを許さない、それにも拘らず我々の判断は概念に基づくのではなくて、まったく我々の感情に基づいて行われるのである。そこで我々はこの感情を、個人的感情としてではなく共通的感情〔共通感〕として、かかる判断の根底に置くのである。ところでこのような共通感は、決して経験に基づいて設定され得るものではない。(判断力批判 上』135頁

 第四様式の適意『様態』の分析では、これ以上の根拠づけはなされていません。この共通感については、「第四〇節 一種の『共通感』としての趣味について」でもう少し詳述されています。

 カントの共通感覚の捉え方に関しては、ガダマーは主観主義化・脱政治化を批判し、アーレントは逆に政治哲学の可能性を引き出しています。城戸淳「共通感覚論ー共同性の感情的基礎のためにー」では、カントの共通感覚論を経験的次元における原理と捉えたことから生じた齟齬だと論じられています。城戸さんによれば、カントの共通感覚論に託された「人間共同性の超越論的な基礎づけという契機を見損なっている」(16頁)と言うのです。カント的にはこの読みに妥当性を感じます。

              2024年6月16日 磯崎海岸

h-miya@concerto.plala.or.jp