美学的判断である美の普遍妥当性は、一切の関心に関わりない判断であることから普遍妥当な本質を持つ、とまず定義されました。そしてその判断が個別的・単称判断であるのに普遍妥当性を要求する形は、「主観的」普遍妥当性であることが言われました。では、この主観的普遍妥当性は何に基づくのか、というと普遍的伝達可能性(allgemeine Mitteilbarkeit)による、というところまで見てきました。
これはどういうことを言っているのでしょうか。まず、「趣味判断において与えられた対象に関する快と、対象の判定とで、どちらが先か」では、対象の判定が先でないと、感官的感覚における単なる快適になってしまいます。そこで、この判断の根底にあって対象に関する快を引き起こすものは、与えられた表象から生じた心的状態(das Gemütszzustand)に、すべての人が普遍的に関与できるということだ〔27〕、と言われます。
でもすべての人が普遍的に共有し得るのは、認識と認識に属する限りでの表象だけです。この時の表象は客観的で、それゆえ、すべての人はそのように表象せざるを得ないのです。それなのに、普遍的に関与できる性質を持つ判断の規定根拠が単に主観的なものだとすると、それはある種の心的状態以外のものではないと言われます。ウーン、何を言っているのか?
ところでもしこのような普遍的関与性に関する我々の判断の規定根拠が単に主観的なものであるとすれば、即ち対象の概念に関わりなく考えられるとすれば、かかる主観的根拠は或る種の心的状態ーー換言すれば、我々の表象力が与えられた表象を認識一般(Erkenntnis überhaupt)に関係せしめる限り、我々の表象力相互の関係において見出される心的状態以外のものではあり得ない。〔28〕
概念なら、すべての人が客観的に関与できます。心的状態の共有とは何でしょうか。それも普遍的共有。以上の引用部分の後に、このような表象が構想力(Einbildungskraft)と悟性(Verstand)によって認識一般(この認識、あの認識ではなく)を成立させる自由な遊びの心的状態になら、すべての人が普遍的に関与できるというのです。つまり表象が認識能力の活動を開放すると、この両者は自由な遊びを営むと言われます。構想力とは直観における多様なものをまとめ、多様なものの表象を概念によって統一するのが、悟性です。
そしてこのような心的状態に基づいて、普遍的伝達可能性は達成されます。主観的普遍妥当性は、判断する主観の主観性の根源的在り方に関わります。その根源的在り方を形成する表象作用そのものが普遍性を持っている、と言うのです。
美的判断の「主観的」普遍妥当性は、判断する主観の主観性の根源的在り方を形成する表象作用そのものの普遍性に、その根拠を持つことを明らかにした。(長野順子「カントにおける美的判断の『主観的』普遍妥当性」58頁)
さらにこの心的状態も伝達されると想定されます。そこで出てくるのが、共通感覚です。ただ、これは「単なる観念的規範にほかならない」〔67〕と言われるように、理念として提示されています。この共通感覚の想定によって、必然性が言われます。この問題は、趣味判断の様態のモメントの所で、もう一度考えたいと思います。
2023年3月11日撮影 弘道館公園の梅