宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

『判断力批判』を読む 17)趣味判断の量:主観的普遍妥当性

 今日は昨日より、北風が冷たいです。それでも、陽が射しているので、部屋の中にいると暖か。来週は気温が高めのようです。

 趣味判断の第2のモメントが「量」ですが、これは個人の判断(単称判断)であり、かつ論理的判断でないにもかかわらず、判断が「すべての人に例外なく妥当することを必然的に要求する。‥(筆者中略)‥趣味判断には、主観的妥当性に対する要求(ein Anspruch auf subjektive Allgemeinheit)が結びついていなければならない」〔18〕と言われます。

 ここで言われていることは、「これは美である」と言ったら、それに他の人も賛成することを要求しているということです。他の人たちが彼と別様に判断するなら、その人たちを非難して、当然持っていなければならない趣味を欠いていると断定する〔20〕、と言うのです。人それぞれは成り立たない。つまり、「美」という判断には普遍妥当性への要求が本質的なもの〔21-22〕と言われます。

 そしてここでの要求は、概念には基づかないのです。善は、概念によってのみ普遍的適意の対象として表象され、すべての人に例外なく妥当することを要求します。これに対して快適なものは個人的感情に基づいています。だから快適なものに関しては、各人が各様の趣味を持っている、趣味は人それぞれが成り立ちます。美は、個人的感情に基づきながら、しかも普遍妥当性を要求します。対象の概念に基づかない普遍性は、論理的普遍性ではなく美学的普遍性であり、判断の客観的分量を含まず、主観的分量を含むにすぎない。ということからこれは主観的普遍妥当性(subjektive Allgemeingültigkeit)と言われます。

 では、なぜ普遍妥当性を要求できるのか。カントはこの両者( 快適に関する趣味判断と美に関する趣味判断)を、感覚的趣味と反省的趣味と区別します。ただし感覚的趣味が経験的には極めて広範囲に亙る一致をみることも認めています。そして反省的趣味がすべての人に普遍的に妥当することを要求しながら、その要求が極めてしばしば拒否されることも経験の教えることである〔22〕、と言います。その通りですよね。ですから、この要求は可能かどうかの問題ではないのです。

 そして第2モメントで良く取り上げられる部分が、9の趣味判断での快の感情と対象の判定の先後関係です。快が先になってしまうと感官的感覚における快適から始まることになって、すべての人が普遍的にその快に預かるというのは自己矛盾だと言われます。ということは、まずは普遍的に共有できる対象の判定があって、それが間接的に快を引き起こすと考えた方が妥当だということです。ここで出てくるのが、普遍的伝達可能性です。

 それはどのような判定なのか。稿を改めます。

   国立西洋美術館の庭の『地獄の門』(オーギュスト・ロダン)2024年1月12日撮影 

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