宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

『判断力批判』を読む 20)趣味判断の「様態」:共通感ⅰ)

 今日は曇り空で、時々晴れ間が出ました。先ほど、雨がぱらついて、涼しい風に変わりました。風の涼しさにほっとします。

 13日からお盆期間になりますが、子どもの頃13日の夕方に迎え火をしていました。今はやっていません。お盆行事もちゃんと受け継いでいないなぁと反省します。お盆は盂蘭盆会から来ています。地獄に落ちた母親を救うために、多くの僧を招いて供養したところ救われた、という由来が盂蘭盆経の中に書いてあるそうです。お盆は死者と向き合う時間だと言われますが、魂の問題を考えるようになって、そういう仏教行事の中身に関心を持つようになりました。

 さて、カントの共通感覚(Gemeinsinn)の問題ですが、趣味判断の様態の部分に出てきます。美は適意に対して必然的関係(美は適意を持たねばならない)を持ち、それは理論的客観的必然性でもなければ、実践的な客観的必然性でもない、というのです。そうであるなら、この趣味判断の必然性は感情に原理を持たなければならず、それは共通感と見なされるようなものでなければならないだろう、と言われます。

 共通感覚(センスス・コムニス)の概念がドイツ語で表記されるようになったのは比較的新しく、17世紀末ごろと言われます。そして19世紀初めに至るまで、センスス・コムニスというラテン語翻訳語としてのドイツ語Gemeinsinnの使用には、不完全さの意識を伴っていたようです。カントの共通感覚(Gemeinsinn)という概念規定は、そういう時代背景の中で行われていたわけです(千葉建「カントの共通感覚論」『つくばリポジトリ)。

 カントにおいてこの共通感は、私たちの普通の悟性である常識としての共通心とは別だと言われます。なぜなら、「常識は、感情によって判断するのではなくて、概して不分明に表象された原理にもせよとにかく概念に従って判断するものだからである」(判断力批判 上』132頁)と言われています。カントのこの共通感覚としての常識の考え方は、考え方の格律(モットー)として良く引用されています。かく言う私も、考えるとはどういうことかをまず伝えるときに、よく引用してきました。下は「考える」とはどういうことかをテーマにした授業のレジュメの一部です。

 考えるとは:カントの人間悟性(常識)の考え方の規準の格律

 1)自分自身で考えること(成見を持たない考え方の挌律)

 2)自分自身を他者の立場において考えること(拡張された考え方の挌律)

 3)常に自分自身と一致して自己矛盾のないように考えること(首尾一貫する考え方の挌律)

 『判断力批判』の第一篇美学的判断力の分析論、第二章崇高の分析論に出てきます。第一章美の分析論の趣味判断の第四様式で述べられている共通感とは異なっているわけで、この違いをどう解釈したらいいのか、違和感を持っていました。しかし、城戸淳さんの論文「カントの共通感覚論-共同性の感情的基礎のためにー」によると、カントはアリストテレス流の共通感覚を継承していて、それは「共通の人間知性の格律」にも見られるというのです。「普遍的伝達可能性としての間主観的な共通感覚」という理念と捉えられています。この辺り、もう少し考えていきたいと思います。

                柴沼清作『かぐや姫

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