宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

心のデトックスのあとに

 哲学には、心のデトックス効果があるのかなと思います。自分のこだわりと向き合って、「なぜ?」を繰り返していくと、最後は「私が気にしているだけ」に辿り着くことが多々あります。

 大学1年か2年の時、デカルトの方法的懐疑に倣って、それをやったことがあります。問題は何だったのか、今は思い出せないのですが、最終的に「私が」に辿り着いたとき、開放感と同時に世界から切り離されて「一人」になってしまった自分に戦慄を覚え、街の本屋に出かけたことを覚えています。日常が少しずつ戻ってきました。恐らく、卒論のテーマが「ニーチェニヒリズム」になったのは、この経験が下敷きになっていたのだと思います。

 なぜなら「私が気にしているだけ」は同時に、行動の指針をどうするのかに連接しているからです。行動の指針を自分で選択していくなら、どういう原則に従うのか。宗教を持つ人は、そこに戻って行けます。宗教を持たない場合はどうするか。自らの生きる場の哲学を作り上げていく必要があります。

 私にとっては「自由」がテーマになりました。元をたどれば、高校時代に行きつくようです。高校の校風というのは、青年後期の心の成長に深いところで影響を与えていると思います。日常生活の中の諸々の常識に疑問を持って、ただそれをどう表現していいのか分からなかった高校生の頃、疑問を持つことは間違っていないと背中を押してくれる校風でした。

 その後、「人は一人では生きられない」というよく言われる言葉を、「人間の自由」とどう折り合わせていくのかが課題になりました。フリードリヒ・フォン・シラーは、人間の持つ二重性(感性的・物質的側面と理性的・精神的側面)を「遊び」が昇華すると考えていました。感性的現実を生きる素材衝動・物的衝動と、理性的・道徳的理想へ向かう形式衝動との間のせめぎ合いは、直接調節は無理で、美的中間状態を必要とする。その美的中間状態は遊戯衝動の対象だと言います。「美とは遊んでいられます」という印象的フレーズがあります。真面目なもの、真剣なもの同士は、そのままでは調整不可能ということです。

 人間の自由、人間の複数性は、そのままでは連帯には結びつきません。まず、一つ目には、それぞれの抵抗(ローカル・レジスタンス)による連帯の道があります。しかし、私たちは、抵抗という在り方を必ずしも取らない日常を送っていることが多々あります。そういう場合でも、二つ目の在り方として、共感や義務感からのコミットメントとしての連帯があります。

 そしてもう一つ、「遊び」を通しての自由な個々人の連帯があるのではと思っています。

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              知人宅のバラが咲き始めました。

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