宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

シラーの言葉:「人間は遊んでいるところでだけ真の人間なのです」2)

 今日は朝方、少し雨模様でしたが、お昼頃から晴れ間が出て来て、暖かくなっています。2、3日は春の陽気のようです。恐らく、梅がどんどん咲いて行くでしょうね。9日に、デイ・サービスで観梅に行きましたが、寒くて、ドライブだけになりました。利用者さんたちは、どうしても施設の中で過ごす時間が多いので、外に出かける機会を喜んでくれます。「ああ、きれいね」という言葉が響き合う瞬間は、本当に満たされて行く歓びを感じます。そこでは場を共有することで、歓びを共有し合っています。

 さて、シラーにとって「遊び」とはどのようなものだったか。人間の持つ二重性を昇華するものと捉えていたようです。人間の二重性とは、感性的・物質的側面と理性的・精神的側面という捉え方です。これはこの当時の人間観や特にカント哲学の影響と考えられます。

 しかしまた、シラーは詩人でもあり、ゲーテに心酔していました。『人間の美的教育について』(1795年)は、教育学における古典的テキストであると同時に、遊びと人間形成の関係を論じた論考の嚆矢として高く評価されてきました。ただし、その矛盾を含む内容の解釈の難しさには定評があります。実際、読んでみて、全体として捉えきれない、という感想を持ちました。文学的要素と哲学的要素が一体化していて、その表現の意味がつかみきれません。

 シラーは人間の持つ心的傾向性・衝動を二つに分けました。一つは感性的なもの(素材衝動、物的衝動)で、人間の物質的生存・感性的天性から発します。もう一つの衝動が、人間の絶対的生存あるいは理性的な天性から発する形式衝動です。そして、この二つの衝動を調和させるものとして、遊戯衝動を考えました。カントは感性的領域よりも理性の領域を上に置きましたが、シラーは同等に扱っています。カントでは理性の領域は精神の領域で、シラーの理性はカントではむしろ悟性(思考)にあたるのかなと思います。ともあれ、シラーは、感性と理性を二つの衝動として同等に位置付けています。ではどうやって調整していくのか。

 シラーはそれぞれは矛盾していて、そのままでは調和不可能と考えています(「直接に感覚から思考へ移ることは出来ません」第20信)。一度、それぞれから一歩退くことが必要なのです。そして、美的なものは自由の領域であって、この領域で遊戯衝動が作動して、二つの衝動はここで調和されることが可能になります。

 人間の感性的・受動的能力と構想的・能動的能力との間を繋ぐものが美への感受性と美との戯れで、自然に支配された状態から叡知界(自由)への移行を実現するもの が、美的感受性だったと言えます。

 「気持ちのよいものとか、善いこととか、完全なものは人間にとって、ただ真剣なものなのですが、しかし美とは遊んでいられます」(第15信)

 美の領域は自由の領域であり、二つの衝動から自由に、戯れていることが出来る領域だということでしょう。その中で、人間性が建設されて行く。遊戯衝動は物質的なものにだけ向けられると考える必要はない、とも言われます。遊びの向かう対象は、シラーが考えている人間性建設のために必要な美の領域だけではない、ということです。

 二つの衝動(感性と理性)はそのままでは緊張をはらんだままで、矛盾したままです。しかし、これらは共に人間の人格への形成には必要なものなのですが、直接的移行はできないと言われています。中間状態を経て質料(感性)と形式(理性)が調和します。この中間状態に至らせるのが、美だと言われます。

 「美によって、感性的な人間は形式に導かれ、そして思索に導かれるのです。美によって、精神的な人間は質料Materieに還元され、そして再び感覚世界が与えられるのです」(第18信)

 そしてこれらの衝動は精神の中に存在しますが、精神そのものはこれらの衝動と区別され(第19信)、意志がこれらの衝動のあいだにあって、一つの完全な自由を保持する一つの権力(第19信)と言われます。

 ここまで読んでくると、シラーが、遊戯の中で人間が真の人間になるといったことの意味が何となく分かってきます。感性的現実を生きる素材衝動・物的衝動と、理性的・道徳的理想へ向かう形式衝動との間のせめぎ合いは、直接調節は無理であって、美的中間状態を必要とする。その美的中間状態は遊戯衝動の対象だということでしょうか。

 『人間の美的教育』は、人間の精神の世界を描き出している著作であり、不思議な魅力を持っています。ただ、意図が読み取り難いのは感じました。理論的でもあり、感覚的でもある文章で、行ったり来たりしながら読んで行くと分かってくる部分があります。

 遊びがなぜ人生において、教育における人格形成過程だけでなく重要なのか、それに一つの解釈を与えてくれます。もちろん、私たちは死ぬまで成長し続ける存在である、という観点からは、人格形成に終わりはないとは言えると思います。そこまで教育的に考えなくても、私たちは自分の中でも矛盾を抱えていますが、人と人との間でも矛盾を抱えています。遊戯衝動は、そういう矛盾に(いい意味での諦めを含めた)調和を生み出すための中間領域を開いてくれるのだと思います。

h-miya@concerto.plala.or.jp