宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

『ホモ・ルーデンス』(1)

 『ホモ・ルーデンス』(高橋英夫訳、中央公論社、1971年)を読み直し始めました。大学生の頃、美学の先生の演習で、この本を読みましたが、分かりませんでした。今、遊戯の問題を考え始めて、再度、読み始めています。

 訳者の高橋英夫さんが解説で、(ホイジンガ65歳の時の刊行だが)「比較的読まれていないのは欧米諸国でもさして事情に変わりがないように見える」(1971年)と書いています。確かに、ヨハン・ホイジンガ(1872-1945)の著作では『中世の秋』の方が評価しやすいかもしれません。『ホモ・ルーデンス』は歴史研究者ホイジンガという視点に立つと、どう位置付けるのかが難しいようです。私が演習で読んだときも、担当していた教授は美学専門の方でした。遊戯の問題は、社会学系か美学系、教育学系のテーマとして好まれている感じがします。高橋英夫さんはこの書を「単なる記述的、描写的な文化史の水準をはるかに超えてしまった文化史家の著作」と捉えます。

 ホイジンガは「生活行為の本質」、「人間存在の根源的な様態は何か」という問いに達したとき、結論として至ったのが「人間は遊戯する存在である」というものだったと言うのです。第1章を読みながら、私も、ホイジンガは遊戯の本質を、人間を超えて生きているものの行動の本質と結びつけながら、文化生成の根源と捉えようとしていると感じます。その壮大な構想をどこまで読み込めるか、ちょっとワクワクします。

 ニーチェは遊戯と偉大さを結び付けました。『ツァラトゥストラ』の「精神の三態の変化」では、ラクダーシシー子どもという変化を語り、その子どもは「遊ぶ子ども」と言われています。ホイジンガが捉えようとした遊戯の本質は、文化の本質の問題でもあります。ニーチェも遊戯という形式を、文化の在り方の徴として解釈していたと思います。

 高齢者施設で介護士として高齢者と接していると、彼らがレクリエーションにのめり込んだときの自発性には、毎回、驚ろかされます。子どもたちが遊ぶことに夢中になることは当たり前と思っていて、その声や姿にはふっと心が和むことはあっても、あまり驚きはありませんでした。大人としては、遊びは気晴らしというスタンスだった気がします。しかし、遊びは、文化発生の基底に蠢く生のあり様なのかもしれません。だからこそ認知症状を呈している人も、その原初的生の在り様に揺さぶられるのでしょう。

 「遊び」というキーワードに立つと、人生が違って見えてくる感じがしています。『ツァラトゥストラ』を解釈し直す視点をもらったとも思います。『ホモ・ルーデンス』が開いてくれる世界がどういうものか、楽しみです。

 ホイジンガは、遊戯の本質を定義して、「面白さの要素こそが、何としても遊戯の本質」なのだと言っています。そして人間以外の動物も遊戯をすることを指摘し、それによって、動物は機械的存在以上のものであることを示していると言います。私たち人間は遊戯し、かつそのことを知っている。これは、私たちが単に理性を行使する存在以上であることを言っていて、遊戯が非合理的なものであることになると言うのです。その意味で、遊戯は真理や善悪を超えています。しかし、「遊戯は深いところで美的なものと繋がりを持っている」とも言います。経験科学の遊戯への取り組みはその部分を無視していると批判しています。

 ホイジンガは、シラーの「遊んでいるところでだけ彼は真の人間なのです」に深く共鳴したと言われますが、これはシラーの『人間の美的教育についての書簡』の有名な一節です。シラーは「美とは遊んでいられます」とも言っています。美と遊びとの深い関係。これは遊びの本質の問題と関わります。

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