宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

「親ガチャ」

 今日で9月は終わりです。「親ガチャ」なる言葉を最近知りました。考えさせられる言葉です。これって、自分の人生は自分で切り開ける、という信念というか希望を抱けない社会になっているということでしょうか。親の経済力の差が、子ども世代での格差拡大に根本的に影響してしまっている。

 日本型システムへの不信感は、いろいろなところで言われてかなりになります。例えば、昨年の春闘経団連会長中西氏(2018年5月~2021年6月)は、賃金交渉だけでなく、日本型雇用システムの見直しも労使間の議論のテーマとするよう呼び掛けたそうです。日本型雇用システムとは、「新卒一括採用」「年功序列型賃金」「終身雇用」をその大きな特徴とするものです。第2次世界大戦後、1950年代後半からの高度経済成長期(73年のオイルショックで幕を閉じました)とその後の経済の発展に日本型雇用システムは大きく貢献しました。

 しかし、バブルがはじけた1990年代以降の経済停滞期。2000年代に入って小泉元首相と竹中平蔵金融大臣による不良債権問題処理によって一時経済は回復しました。その後、2008年のリーマン・ショックで停滞に逆戻りし、「失われた20年」が言われました。「失われた20年」からの脱却は、2012年に第2次安倍政権が誕生して、金融緩和政策と財政拡張政策が打ち出されてからです。そして、競争力の強化とスピード感を身に付けた企業の収益は伸びました。しかし、その反面、格差は拡大しています。特に新型コロナの閉塞状況は、派遣切りなどで格差拡大を急速化させています。

 「親ガチャ」の話に戻ると、虐待されて「親ガチャに失敗した」という子は、当然支援を受けられるし、これは周囲の大人が対応しなければならない問題です。経済的に塾に行けない子どもたちの問題は、「親ガチャ」の話でしょうか。これは教育行政対応の問題だと思います。感覚としては、思うに任せない現実へのいら立ちの表明なのでしょう。いわゆる新自由主義の小さな政府政策が、個人に対する自助への過度の、あるいは間違った場面での自助への呼びかけが、問題を個人レベルにする雰囲気を生んでいるのではないか。そんな気がしないでもないです。

 問題が手に負えないとき、周りを恨みたくなります。でも、問題に向き合う姿勢を間違えると、袋小路に陥るし、精神的にも追い詰められます。軽いノリで、「親ガチャ失敗」で終わらせているくらいならいいのですが。

最近のちょっとした楽しみ

 久しぶりにひたちなか海浜鉄道に乗りました。乗客は、時間帯のせいもあるのか、まばらでした。周りの田んぼは、ほぼ稲刈りが済んでいて、刈穂の香りがします。電車の中からは想像するだけですが、車で窓を開けて走ると、秋を実感させるこの季節の香りです。

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 車での移動が多いので、電車はほとんど乗りません。でも、乗ってみると、案外、気持ちのいいものです。自分で運転していると、周りの景色を見ているわけにもいきませんが、電車だと見回して楽しめます。公共交通機関をもっと使うようになるには、何が必要なのかなぁ。

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 仕事場で、ちょっとした懇親会がありました。上の写真はデリバリーで届いたお料理です。スタッフはワクチン接種は終わっていますが、外での会食はまだまだ難しいので、仕事場で打ち上げ的に頂きました。非常事態宣言が終了し、夏休み期間の仕事も終わったので、お疲れ様でしたの慰労会。

 本当に久しぶりに、数人で食事をしました。席はかなり距離をとって座り、食べるとき以外はマスクを着けて話していました。なんかこの方式身に付いてしまいましたね。それでも美味しいものを何人かで食べる楽しさ! 忘れていたなぁ。

 10月のはまぎくカフェは、漸く再開することになりました。あとどのくらい、この何となく窮屈な生活が続くのか。それでも小さな息抜きをすることで、乗り切れそうな気がしています。

科学的管理法とホーソン工場の実験

 昼間は暑くても、朝晩は涼しくなりました。今日はお彼岸のお中日です。お彼岸の行事は日本独自のものだそうです。豊作祈願の「日の願い」が「日願(ひがん)」として、仏教の「彼岸」に結びついたという解釈もあるようです。そうかぁ。

 10月から始まる人間関係論の授業の準備を始めなければと思い、テキストを読み始めました。人間関係の重要性は言わずもがなですが、それが学問の一分野として登場するのは、20世紀初頭の経営学における研究からでした。その嚆矢は、「ホーソン工場実験」です。実験自体は人間関係を探るものではありませんでした。

 実験が行われたのは1924年から32年まで。シカゴ郊外のウェスタン・エレクトリック社のホーソン工場でした。最初は、エレクトリック社と「全米学術協会」の「全国調査会議」が調査を行い、途中からハーバード大学のエルトン・メイヨーとフリッツ・レスリスバーガーたちが加わって、実施機関がハーバード大学になったという経緯があります。

 この時代の経営管理論は、フレデリック・テイラーが主張した科学的管理法が主流でした。科学的管理法とは、それまで工場労働者の主観的経験や技能に頼っていた作業を、客観的・科学的に整理して管理する考え方です。

 テイラー・システムと呼ばれるこの手法は4つにまとめられます。①作業量の設定:一日のノルマを、労働者の動きを実際に観察し、客観的に導き出します。②作業手順:作業の条件や流れをマニュアル化します。熟練工の効率性の高い動きをもとに、必要な道具や一つひとつの作業にかける時間を明確化。③差別出来高給:ノルマを達成した工員と出来なかった工員で、異なる賃率で報酬を支払う。ノルマ達成へのインセンティブになりますが、ハードルが高すぎるとかえって労働者の労働意欲をそぎます。それだけに作業量の設定が大きな意味を持ちます。④職能別職長制:職長の権能を計画と執行に分けます。職長があらゆることに責任を負うと、結局勘頼みの管理になって、グループごとにばらつきが出てしまいます。

 成程、と思いました。④に関しては責任者に計画と執行の両方が任されると、確かに、融通性は高まりますが、その場限りの運用が続いてしまう可能性はあります。フォロワーが追い付けない事態が起こりやすい気がします。

 この科学的管理法を実践して成功したのが、1903年創業のフォードでした。フォード・システムと言われる大量生産方式です。

 このような時代に、ウェスタン・エレクトリック社は、現代のアメリカ最大手の電話会社「AT&T」の子会社で、電気機器の開発と製造を行っていました。1914年から1918年に起きた第1次世界大戦でアメリカは、国土が戦場になることもなく、兵器の生産と輸出で巨額の富を得て、ヨーロッパの衰退の中で、世界にその地位を確立しました。この時期のアメリカの好景気を背景に、エレクトリック社は、親会社からの大量の注文をさばく必要が出て来て、作業効率、生産能率を上げるために科学的管理法の実証を行う必要が出来てきました。

 このように生産性向上のための条件を探るために行われたのが、「ホーソン工場実験」でした。職場の物理的環境条件が生産性にどのように影響するかを探る実験として始まりました。しかし実際はどういう結果が出て来たでしょうか。なんと、案に相違して、人間関係が生産性に影響するということが突き止められました。この経過を次に見ていきたいと思います。           

彼岸花を見ながら

 台風が近づいています。金曜日から土曜日には雨がどのくらい降るか、心配です。畑の端に朱色の彼岸花が咲きました。彼岸花は曼殊沙華とも言いますが、これはサンスクリット語で「天界に咲く花」の意味だそうです。その他にもたくさんの別名があります。白い彼岸花があることを、最近知りました。黄色い彼岸花もあるのですね。彼岸花には約20種類のアルカロイドが含まれ、特に球根には多いそうです。土手や畦道に彼岸花が植えられているのは、モグラやネズミから稲や作物を守るためのようです。成程ですね。私はただ「綺麗、秋だなぁ」と思いながら見ていましたが、そういう効果を狙っていたのか、と納得します。

 現代だと、超音波撃退法、なんていうのがネットを引くと出てきます。野ネズミは鳥獣保護法で保護されている、というのも知りました。そうなんだぁ。我が家は猫にも悩まされていますが、ネズミも問題ですね。この頃、野良犬にはお目にかからなくなりましたが、野良猫は結構います。

 ところで猫の嫌いな植物ってあるのかな。猫に関しては、好きな人とそうでもない人、嫌いな人いろいろです。ただ、野良猫や外飼いの猫は、問題の方が多いようです。交通事故にあう猫も多いですが、猫を避けようとして自分が事故を起こす人もいるようです。猫は動物愛護法の対象ですが、共存の方法は結構手間がかかりますね。

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障害の多様さ

 現在の新型コロナ感染拡大下でのパラリンピック開催には、いろいろな意見があります。私自身もオリンピック開催も含めて、手放しで喜べない複雑さがあります。ただ、身体障害と言ってもいろいろであることに、パラリンピックが日本で開かれなければ、気が付かないままだっただろうと思います。女子トライアスロン視覚障害)で優勝したスペインのスサナ・ロドリゲスさんは、先天的に肌や髪の色素が欠乏している「アルビノ」で、視力はほとんどありません。しかし、理学療法士としての仕事もしていて、新型コロナ感染症の現場でも働いていたそうです。視覚障害と言っても、色々原因があるんだと、改めて思いました。

 現在『東京新聞』に掲載中の「笑顔 共にその先へ」は、障害のある子どもたちの笑顔を撮り続けている葛谷舞子さんの作品を、6回にわたり紹介するものです。葛谷さんがダウン症の子どもと家族の写真を撮り始めたのは、1998年。出生前診断の記事を読んで、胎児に障害があると分かった多くの親たちが中絶を選ぶという事実を知り、衝撃を受けたからでした。葛谷さんは幼い頃人と話すのが怖かったそうです。そういうとき「しゃべらなくても、いつも仲良くしてくれたのがダウン症の子でした。一緒にいると穏やかになれたし、自分を支えてくれる存在でした。そんな子たちが‥‥と、ショックでした」と語る葛谷さん。彼女はじっくり時間をかけて子どもたちの笑顔を引き出します。昨日と今日の新聞に掲載されている2組の親子の写真は、とても素敵でした。

 障害をもつということはどういうことなのでしょうか。そして、問題なのは障害それ自体よりも、社会の中での不適応から生じる二次障害をどうやって防いで行ったらいいのか、ということです。障害が多様であるということは、それへの対処も多様であるということ。抱えている問題を理解しながら、対処法を根気強く身に付けていくということなのかもしれません。本人も周りの人間も。そして何よりも、本人自身が前向きになる、なれることが一番大切なのではないでしょうか。

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     7月下旬に撒いた落花生の種の芽吹き(知り合いから頂いた写真です)

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        落花生に花が咲いたそうです。どういう風に実がなっていくのか、楽しみ! 

山百合の会と新型コロナ感染拡大の今

 6月のお花の会(18日)で生けた花です。7月は主催者がワクチン接種直後のため休会になりました。8月は緊急事態宣言対象県になったため、会場が使えなくなり休会。夏なのでお花を買って来てまで生ける気にならず、玄関には枝遊びで作った「アソボ」の作品が掛けられたままです。

 子どもたちの間にもデルタ株が急速な感染を引き起こしています。9月からの授業開始は、オンライン授業になりました。この展開に準備は間に合っているのか。医療体制だけでなく学校の現場も対応が出来ていない状態のようです。

 2020年3月の全国一斉休校要請の時、今のような事態が予想されていたかどうか。その後の第1派、第2波というように、繰り返される感染拡大とそれへの対応のイタチごっこのとき、オンライン対応に教育現場ももっと真剣になる必要があったと、今は思います。タブレットが児童一人ひとりに渡されたからと言って、即対応できるかと言えば、難しいです。教師側のオンライン授業への訓練も出来ていないし、子どもたちへの使い方の指導も出来ていない状況だと推測できます。

 たとえば、山百合の会をオンライン開催できるかと考えてみると、無理があると思いました。一番の問題は、作品の手直しを先生にしてもらえないところです。作品自体を見てもらって手を入れてもらうのは、映像を介しては無理です。実技の授業は基本、オンラインでは無理があります。

 それでもオンラインの活用は進めていく必要があります。オンラインで出来ることを手探りしながら積み重ねていかないと、感染症の時代に、私たちはますます蛸壺化されてしまいます。

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    6月18日:クルクマ(ピンクの花)、縞ガマ、ベッチーズブルー(瑠璃玉アザミ)、ソリダコ

相対性の絶対化

 「~は人それぞれだから」は結構よく聞く言葉です。何気に自分でも使っています。話を切り上げるときや、共感は出来ないけどそういうこともあるかな、という時などに。

 しかし、仕事でこれはありかなと、疑問に思いました。最近体験したことです。ある研修会で「療育は人それぞれのやり方がある」というような言葉が発せられました。それぞれの子どもに効く療育法には違いがあるかもしれません。しかし、療育者側のやり方を「人それぞれ」と表現することはどうなのかと思いました。

 たとえば、心理療法でも精神分析療法と行動療法では考え方も対処法も異なり、それが効果を発する症状も異なっています。また、日本の森田療法は不安を受け入れ、不安と共存するやり方を取ることで不安障害やパニック障害に効果があると言われています。内観療法は一週間閉じ籠って内観します。これはデカルト的な感じがします。禅やマインドフルネスの系譜にもつながる気がします。このように心理療法は一つではありませんが、個人的な「人それぞれ」の療法ではありません。

 特に仕事においては、方針の違いを詰める必要があります。「Aという子のこういう状態にここではどう対応していくか」という具体的事例においては、療育者の力量もありますが、理に適った対応法はほぼ一つに集約します。

 共同作業では、折り合うところを明確にしないと、上手くいきません。「人それぞれ」は趣味であったり、個人的作業においては問題ないです。ただしそれは交わらないということを意味します。力を合わせなければならない場面において「人それぞれ」ということは、相対性の絶対化になります。相対主義も絶対主義も、どちらも閉じたサークルを作ります。相対主義は一見すべてを認めているようですが、それは対話の終焉を意味します。絶対主義が対話を拒否するのと何ら変わりません。

 複数性はまさに相対主義の原点ですが、連帯のためには共有できる点をその都度明確にする必要があります。連帯に当たって、それぞれの生き様に関わる基本方針の相対性を語ることに、どういう意味があるのか。

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              8月18日の平磯海岸

h-miya@concerto.plala.or.jp