宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

観察と推論の関係

 シャーロック・ホームズは人並外れた観察眼を持っています。そこから色々推測して、対象者の職業や好み、癖、その時の悩み事などを見抜きます。ナイチンゲールは「観察」の重要性を指摘しました。観察を通して患者の病態を捉えることで、それを改善するための対応行動が取れます。しかし、観察とはただ観ることなのでしょうか。例えば、写生をするとき、当然観察が大切ですが、見ているだけでは絵は描けません。どういう風に何を見るのか。そして観たものをどういう風に描くのか。

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     ジャストロウからヴィトゲンシュタインが借用した図(『哲学探究』第二部ⅺ)

 アヒルにも見えるしウサギにも見えるという、アヒル・ウサギの図があります。そう思ってみるとどちらもその図に読み取れます。しかし、二つを同時に見ることは出来ません。私たちが何かを見るとき、あらかじめ多くのことを知って見ています。これは両方をあらかじめ知っていて、それを読み取ろうとするとどちらも見える。

 さて、そこに問題が読み取られ、それを解決するためには、問題の原因の仮説設定がされます。この観察と仮設との間に直接の因果関係はなく、そこに見る側の見方(バイアス)がかかると言われます。観察して、問題を見い出し、その解決のための原因を仮説として設定する。ウサギを見るかアヒルを見るか、あるいはどちらを重視するか。

 18世紀の燃焼理論がそのいい見本を提供してくれます。これは「燃焼とはフロギストンという物質の放出の過程である」という理論で、燃素説とも言われます。後に、酸素説に取って代わられますが、100年以上も多くの科学者から支持されていました。どちらの説も理性的観察者が主張したわけですが、異なった背景を持つことで、同じ科学的証拠から違った結論が導かれます。

 これが絶対の正解、というのはないということです。ただ何でもありではなく、よりよい仮説とよくない仮説があるわけです。その基準は何か。いろいろ言えると思いますが、理に適っているかどうか、バイアスが含まれにくい手法をとっているかどうか、より広範な現象を説明できるかなどが言えるのかもしれません。

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              3月31日「はまぎくカフェ」の会場の花

日常生活の中の「裸の事実」

 看護や介護という分野での「科学的」とはどういうことかを考えています。戸田山和久さんの『「科学的思考」のレッスン』(NHK出版新書)に、科学的説明はできるだけ「裸の事実(Bare Fact)」を減らす試みだ、という表現が出てきました。これは哲学で言う「ブルート・ファクト(生の事実)」に当たります。なんか、そうか、そういうことかと納得しました。

 哲学でbrute factというと、それ以上さかのぼれない「事実」というような意味です。例えば、「無から有は生じない」には理由はありません。西洋哲学では大前提です。

 現実の生活の中でも、この「裸の事実(bare fact)」(それ以上説明できない事実。そういうものとして受け入れるしかない事実)はたくさんあると思っています。哲学における究極の事実、という考え方から、日常生活の「裸の事実(bare fact)」という捉え方に繋がりませんでした。常識という日常生活の土台という考え方はしていました。ただこの常識とどう向き合うか、という時に手をこまねいていた、とも言えます。デカルト流の保守的生活訓が無難なのかなぁ、と思っていました。

 デカルトの自分用の当座の準則というのは、『方法序説』第三部に出てきます。デカルトの場合は、哲学の理論的作業の裏にある実生活の規則であって、意識的努力を理論的作業に傾注するための取りあえずの方針です。

①第1の格率:自国の法律と習慣に従い、自分の属する社会の人々の最も中庸を得た意見に従うこと。

②第2の格率:私の行動において、できる限りしっかりした、またきっぱりした態度を取ること。

③第3の格率:運命により自分に打ち勝つことに勤め、世界の秩序よりはむしろ自分の欲望を変えるように勤めること。

 しかし、看護や介護が向き合う対象者の人間にとって、生活は仮のものではなく、自分を充実させる生きる場そのものです。患者や要介護者を支えるというのは、彼らそれぞれの生活の充実を前提としています。

 さて、看護の場合は、「健康状態の肯定的変化を目指す援助」が看護実践の中心を構成しています。そして、その対象である患者は、自らの意思と感情、価値観を以て自分の健康状態と向き合っています。個別特殊性が高いので、科学のいわゆる再現性という要件に合い難い。

 介護の場合は、さらに中心を構成するものが何か自体を明確にし難い部分があります。いわゆるADLActivities of Daily Living 日常生活動作)支援が手一杯で、QOL(Quality of Life 生活の質・生命の質)まで視野に入れられているかどうか。それが、介護の現状は日常生活動作の支援であって、日常生活の支援になっていない、と言われるゆえんです。現場においても、介護の中心を構成するものが何か、明確でないと思います。

 日常生活の支援ということ自体、どういうことを意味するのか。

 日常生活の中の「裸の事実(bare fact)」は、構成されたものですが、それは自覚的ではなく身体レベルに組み込まれています。歴史・文化的背景の中で醸成されたもので、それによって生活が動いています。いわゆる常識も日常生活の中では、これに当たると思います。

 社会科学はここの部分に切り込みますが、通常の生活はそれをやっていると回らないので、常識を前提に動きます。でも常識の持っている時代に遅れていく部分は、時に軋轢を生みます。

 介護の世界では、この生活の中の「裸の事実(bare fact)」とどう対応していったらいいのか。科学的ということが介護でも言われるようになっています。科学的ということが、「裸の事実(bare fact)」を減らす努力だとするなら、介護においても要介護者の行動や心を説明し予測することを、勘に頼るのでなくどうやって行くかが問われていると思います。

ハイデガーのSorge(関心・気づかい)3.

 昨日は小雨で肌寒かったです。今日は曇りで時々晴れ間が出ていますが、寒いです。明日からは気温が上がるとの予報。暖かくなると、草の伸びが速くなります。そうなると、草と格闘の時期に突入です。「晴耕雨読」という言葉が浮かびました。「晴れた日には田畑を耕し、雨の日には読書をするという、悠々自適の生活」と出ていました。成程。しかし、草取りに追われる生活は、悠々自適とは、言い難いなぁ。

 さて、三浦秀春さんの論文では、ハイデガーのブルダッハへの言及の殊更の簡潔さが問題にされていました。ハイデガーがブルダッハの論考から得たものは、„cura”における二重の意味だと三浦さんは捉えています。ただそれをハイデガーは「被投的投企」という実存論的解釈に持ち込むことで、「二重の意味」もそのために利用されている印象が生じている、と。

 ハイデガーはブルダッハの二重の意味に関して次のように書いています。

ブルダッハは、『クーラ』という術語の持つ二重の意味に注意を促し、それによるとこの語は「不安げな努力(ängstliche Bemühung)」を意味するばかりでなく、また「細心(Sorgfalt)」、「献身(Hingabe)」をも意味します。(存在と時間』(中)140頁) 

 これに対し、ブルダッハ自身の論考での該当箇所は次のようになっているそうです。以下は三浦さんの論文からの引用です。

「‛cura’というラテン語は二重の意味を含んでいる。この語は、『憂い(Sorge)』、『煩い(Besorgnis)』、『気の休まらない苦労』とともに『愛惜(Fürsorge)』、『優寵』、『献身』をも意味している。」(S.49)

 ハイデガ―の言及で省かれている Sorge、Besorgnis、Fürsorgeは、ハイデガーの『存在と時間』の中で、実存論的=存在論的概念として重要な役割を果たしています。ブルダッハの二重の意味は、負の価値を持つ「日常的心労」に類する意味と正の価値を持つ「道義的苦労」に当たる意味を対比させている。この対比は、ハイデガーの現存在の分析論における「日常性」(非本来的頽落態)と「本来性」の対比に影響を与えている、と三浦さんを言います。

 ハイデガーは現存在(人間)とは、もののような配慮の対象ではなく、「〔気づかい世話する〕顧慮のうちにある」(存在と時間』(上)232頁)と言います。そして顧慮には二つの側面があることにも言及しています。第一のものは、他人から、≪Sorge≫(心配という意味合い)を除いてやって、手元のものへの配慮のように、配慮してかれのために肩代わりして背負ってやる。その結果、かれは依存的にも被支配的にもなる、と言われます。これは≪Sorge≫(心配)を取り除いてやるような顧慮です。

 これに対し顧慮の持つ第二の可能性が語られています。

他人のために尽力するというよりもむしろ、この顧慮が他人に対してその実存的な存在可能の点において飛んで見せる〔模範を示す・率先垂範する〕ことに成り立つのであって、これは他人のために「心配(ゾルゲ)」を除いてやるためでなくて、むしろ初めて本来的にゾルゲをゾルゲとして返してやるためです。本質的に本来的関心(ゾルゲ)――すなわち他人の実存に関するのであって、他人が配慮している何物かに関するのでないこの顧慮は、他人を助けて、かれの懸念(ゾルゲ)を自らにおいて見通させ、こうして懸念に対して自由になるようにさせるのです。(存在と時間』(上)234頁

 顧慮は、現存在の存在の構えとして明らかにされています。そして、この両極端が、尽力的=支配的な顧慮と垂範的=開放的顧慮で、この間に日常的相互存在が保たれていて、多様な形態をなすが、それぞれの分析はこの書の研究範囲を超えると言われています。 

 この辺り、ケアの在り方を考える上で参考になります。

ハイデガーのSorge(関心・気づかい)2.

 ここのところ、お天気も安定していて、桜がきれいです。西洋シャクナゲも花が開き始めました。

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            2021年4月2日庭の西洋シャクナゲ

 今、ハイデガーのSorge(関心・気遣い)の解釈をしている論文を幾つか読んでいます。ハイデガーは「現存在(人間)の存在」をSorge(関心・気遣い)と規定しています。これは何ら倫理的意味合いを持たない規定です。

現存在は、存在論的には、関心(Sorge)だからです。世界・内・存在は、本質的に現存在に属しているから、世界に対する現存在の存在は、本質的に配慮(Besorgen)なのです。(存在と時間』(上)112頁

「„Sorge”の周辺―ハイデガーと『ファウスト』―」(1991年、三浦秀春著)では、ハイデガーがどこからSorgeの着想を得たのかを考察していました。

 Sorgeは『存在と時間』(1927年)の中心概念ですが、ドイツ語の日常用語でもあり、存在論的概念として今一つ掴みづらいものがあります。第42節に、有名なクーラの寓話が出てきますが、これもどういう関連があるのかが分かり難いものです。通常、エピソード的に捉えられます。私も、なぜここに寓話が必要なのか、今一つ納得いきませんでした。

 三浦さんは、このクーラの寓話こそが、現存在の存在をSorgeと着想させた、と言っています。それなら、当然入れる必要がありますね。ハイデガーはK・ブルダッハの『ファウストゾルゲ』という著作において「偶然」にクーラの寓話と出会って、その中に現存在をゾルゲとする例証を見い出した、と三浦さんは解釈しています。しかし、(「偶然」であっても)それは単なる「思い付きではない」ことが、ハイデガーによっても言われていることの重要性も指摘しています。

 これに対して、ハイデガーゾルゲは『存在と時間』以前、以後にも出てきているというのが、「ハイデガーにおける気づかい(Sorge)をめぐる一考察」(2012年)で田邉正俊さんが展開している主張です。田邉さんによると、クーラの寓話は1925年夏学期の講義「時間概念の歴史への序説」で、既に取り上げられています。ただここでの取り上げ方がどのようなものかは、私には分かりません。

 そして、その7年前(1918年)に、アウグスティヌスの研究の中で、気づかいの現象に直面していたと、ハイデガー自身が回想しているようです。まだこの段階では、ラテン語curaの動詞形の不定法curareが「事実的な生の根本性格」と位置づけられ、sorgenではありません。後にSorge(関心・気づかい)の存在的な現れと位置づけられる「憂慮すること(Bekümmertsein)」と同等視されていて、過渡的性格を持っています。このcurareがsorgenと同等視されるのを、田邉さんは1922年の「アリストテレス現象学的解釈」(いわゆる「ナトルプ報告」)においてとしています。ここでは、「生とは気づかうこと(Besorgen)である」という表現が多数みられるようです。

 クーラの寓話が既に1925年の講義で取り上げられていたということは、この寓話にハイデガーが読み取ったものの意味深さがあるようです。ブルダッハの『ファウストゾルゲ』(1923年)での寓話との出会い(「偶然に出会う(stoβen)」三浦解釈)が、ハイデガーに人間存在の存在をSorgeと閃かせた。ただ、stoβenは「ぶつかる」とか「衝突する」という意味もあります。他の訳者はこれらの意味合いで取っています。

 ハイデガーは、クーラの寓話も人間の生をSorgen/Sorgeと捉えることも承知していたが、それがブルダッハの論考を通して「現存在の存在をSorge」と閃かせた、ということはあると思います。これが「前存在論的証拠(クーラの寓話)にぶっつかりました」とわざわざハイデガーが書いているとも読めると思います。ブルダッハの論考を読んでいないので、あくまで推測ですが。

 ブルダッハは、クーラの持つ二重の意味に注意を喚起しています。そしてセネカを引用して、神の善が神の本性を完成するとすれば、人間の関心(クーラ)が人間の本性を完成するということを書いているようです。

それによるとこの語は「不安げな努力(

ängstliche Bemühung)」を意味するばかりでなく、また「細心(Sorgfalt)」、「献身(Hingabe)」をも意味します。そこでセネカもかれの最後の手紙(書簡、124)で左のように書いています。「‥‥‥他者すなわち人間の関心(クーラ)が人間の本性を完成します」(存在と時間』(中)140頁

 ハイデガーもここを強調したかったようです。上に続けて、次のように書かれています。

 人間の<完成(perfectio)>すなわち人間がかれの最も自己的な諸可能性に向ってのかれの展(ひら)けた存在(投企)において、かれが在りうるところのものに成る(Werden)ということは、「関心(Sorge)」の「おこない(Leistung)」です。しかし関心は、この存在するもの〔人間〕が、配慮された世界に引き渡されている(被投性)というかれの根本方式(Grundart)を、根源を等しくして規定しています。「クーラ」の持つあの「二重の意味」は、被投的投企という本質的な二重構造の形をとるひとつの根本構えを意味します。(同書、40-41頁

 クーラに被投的投企という実存論的解釈を、ハイデガーは読み込んでいます。しかし、もともとクーラ(ケア)は一方で重荷、心配、不安、困難という人生において人が負わされているものを意味します。もう一方で、それは他者の幸福への援助を意味する肯定的側面を持ち、気遣いとしての、注意深さ、思いやり、真面目さ、熱意という内実を持ちます。後者の肯定的意味でのクーラは、歴史の中で見失われていましたが、それを再発見したのは、ブルダッハだったと三浦さんは解釈しています。だからこそ、ハイデガーは「現存在の存在」をSorgeとして、基礎存在論を展開する見通しを得たのだろう、と。

 さて、このゾルゲの「人間の救い」となる力に、ブルダッハの前に気づいて作品にしたのがゲーテです。『ファウスト』は、ゾルゲの人間の救いとなる力を具現化した作品の可能性が高いと言われています。『ファウスト』の中でのゾルゲの描かれ方が、『存在と時間』の中でもリフレインされていると、三浦さんは指摘します。そして、「『存在と時間』は、『ファウスト』の哲学編を試みたものであると言っても過言ではない」と言います。この指摘は、ちょっと驚きでした。

 ハイデガーの「現存在の存在はSorgeである」ということを引用で締めくくっておきたいと思います。

 実存論的=存在論的解釈は、存在的解釈に比べて、たんに理論的=存在的な一般化にすぎないといったものではないのです。‥(筆者中略)‥一般化は、不断に登場する存在的な性質でなくて、そのつどすでに基礎に存する存在の構えを意味します。この構えが初めて〔人間という〕、この存在するものが存在的にクーラとして呼びかけられることができることを、存在論的に可能にしています。「生活上の煩い(Lebenssorge) 」や「献身(Hingabe)」を可能にする実存論的な制約は、根源的な、すなわち存在論的な意味において、関心(Sorge)として理解されるほかありません。(『存在と時間』(中)141頁)

  ケア論の根拠に『存在と時間』が持ち出される訳が分かります。ただ、ハイデガーは、存在的な諸々のケアについて論じているわけではないのですが。

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    2021年3月31日 コミュニティーセンターから

津軽三味線を聴く

 はまぎくカフェで、津軽三味線を弾く「弦悟郎」という5人の小中学生グループの演奏を楽しみました。とても上手で、子どもたちの将来を思うと、ワクワクしてくるような演奏でした。

 コミュニティーセンターのラウンジからみた桜です。昨日から満開のようです。

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 5人が入場したときは、参加者の中から「わぁー」という嘆声がもれました。可愛らしかったこととその衣装が格好良かったからです。

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 皆さん聞き入っていました。5人は結構知られているメンバーのようで、色々なところで演奏しているそうです。今は、コロナでそういう機会がつぶれてしまって、残念な状況のようですが、今日の演奏は、活動再開へ向けての弾みになったようです。

 第1部は「津軽あいや節」から始まり、「初櫻」、「六段~独奏入り」(男子・女子分かれて演奏し、それぞれの独奏が入りました)、「波音人(はねと)」でした。参加者の中に青森出身の方がいて、「津軽三味線は元気が出るから大好きなんです」と言ってらっしゃいました。

 第2部は「花千鳥(はなちどり)」で始まり、民謡メドレー(「リンゴ節」「花笠音頭」「ソーラン節」)を子どもたちの津軽三味線演奏と歌に合わせて、私たちも歌いました。その後、「太鼓おどり」「津軽じょんがら節」(旧節)と続き、終了。

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 「太鼓おどり」では、桴(ばち)をくるくる回しながら太鼓を打ちます。

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 アンコールでの5人の演奏姿です。私たちも津軽三味線の音と子どもたちの演奏する様子に元気をもらいました。

映画監督小泉堯史さん

 小泉堯史さんのお話を聞く機会がありました。映画に描く人物は、自分が会いたい人だそうです。そして、これまで、映画に関わりたくないと思ったことはないとも。ある監督のグループにいたときは、合わなくてすぐに辞めたそうですが、黒澤明監督のもとでの助監督はずっとやっていたかったそうです。

 「僕は黒沢さんの助監督でよかったので、自分が監督をやりたいとは思っていなかった」。これは以前にもどこかで読んだことのある言葉ですが、今回は生の声で聞くとこが出来ました。黒澤明監督を、仕事を超えて敬愛されていたことがよく伝わってきました。そういう出会いが、70歳を過ぎても映画を撮ることへの情熱を枯れさせない、映画との付き合い方を培ったのかもしれません。

 黒澤明という監督が何を求めているか、常にそれを考え感じ取ろうと仕事をしてきたそうです。助監督というのは、「自分」が出てしまうと上手くいかないと言っていました。まさに相手を見つめ、相手を感じ取り、相手の言葉を理解し、その場で応答していく。そういう自分を無にする努力を喜びの中ですることで、「出会い」があるのであり、その出会いが次の出会いを生み出していくのでしょう。

 ハイデガーの「世界-内-存在」としての人間の在り様の望ましい姿というのは、そういうことなのかもしれないと思います。その場が、自分を未来へと向けてくれる場であるように、そこで生きられるなら、頽落という繰り返しの生活にはなりません。小泉さんは黒沢監督の助監督という在り様の中で、「世界-内-存在」を充実させる生き方が出来たのでしょう。

 私たちは、教育の中でも社会の中でも、自分の独自性に拘るよう仕向けられています。しかし、独自性は自分の中に探したら出てくるのでしょうか。そうではなく、関係性の中で、対象を見つめ、対象を感じ取り、対象の言葉を聞き取り、その言葉に適切に応答する、応答しようとするときに、おのずとそれぞれの独自性が発現する。それは対象との出会いであると同時に自分との出会いでもある。私たちは、そういう触発し、触発される存在だと思います。「今、この時」に、自らが関わるものと、誠実に向き合うことが、次の一歩を自ずと生み出すのでしょう。自分の中の枯れない生への情熱というのは、そういう風にして紡がれる。

 小泉堯史さんは、黒澤明監督との仕事の中で、それを体得したと感じました。

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          2021年3月28日 知道会館にて

レクリエーションとインプロゲーム

 インプロゲームの即興性は、認知症の人の方が得意かもしれないなぁ、なんて思います。理屈で考える通常の大人度の高い人は、インプロゲームは苦手で、つまらない内容になってしまいます。もちろん自分の殻を破るのには、いい訓練になります。

 ワンワードというゲームがあります。これは一人が一回に一語ずつ話して、お話を作って行くゲームです。最初の人が、「昔々」というと、次の人が、「あるところに」、そしてその次の人が、「女の子が」、次の人が「いました」というように続けます。1回の時間3分から5分くらいで、グルグル回します。いつの間にか、自分が思っていた話と、大体ずれて行って、「えー」という話になっています。これが面白いのですが、認知症の人の持つ論理の崩れは、むしろ、こういうインプロゲームには優位に働くかも、なんて思います。

 私たちのやっている多世代サロンでもゲームをやろうという話になっていて、こういうゲームもちょこっと入れると活気づくかなと思います。私たちもかなり忘れっぽくなってきていて、あまり理詰めで考えなくなってきています。

 インプロゲームは、子どもたちの心の成長を促すグループワークの技法の一つです。インプロは即興のことですが、ここでのインプロとは即興演劇のこと。即興演劇は、台本なしで、その場の当意即妙の応答で創作します。インプロゲームはそのためのトレーニングゲームです。相手をよく見ること、相手の言葉をよく聞くこと、自分の言葉をはっきり話すこと、ジェスチャーを使って自分の言いたいことを伝えること等を、訓練するためのトレーニングゲームです。

 インプロでは瞬間ごとに新たなストーリーが紡ぎ出されます。そのために必要なことが、まず、何かを提供すること(オファー)とそれを肯定し(イエス)、それに何かを付け加える(アンド)ことです。これらがインプロの屋台骨と言われます。

 インプロゲームの講習会(2日続き)に一度だけ出たことがあります。昨年も参加したかったのですが、コロナで講習会が開かれませんでした。最初は、戸惑っていた人たち(私もそうでした)が、だんだん、感覚を全開にして相手を見ながらプラス反応で応答する面白さに嵌っていきます。ゲームでないと、大人がここまで相手を「見る」ことはないなぁ、とつくづく思いました。

 「ハレとケ」という生活を活性化する二分構造を、妙に納得しました。

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              至る所に春が

h-miya@concerto.plala.or.jp