宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

東海第二原発運転再開をめぐる訴訟判決

 18日、水戸地裁は運転を認めない判決を出しました。訴訟の争点は幾つかありますが、避難計画の不十分さが、人格権侵害の具体的危険を示している、というのが、判決理由でした。人格権というちょっと仰々しい言い方に、えっと思いました。要は、人が人として当然持っている権利のこと。生命・身体・自由・名誉・プライバシーなどが人格権の典型だそうです。

 2011年3月11日の福島第一原発事故時点で、日本には54基の原発がありました。これもあの時、初めて知りました。これ以降に廃炉が決定した原発は21基あります。残り33基のうち、現在再稼働にこぎ着けたのは、5原発9基です。

 2013年7月に、原発に対する新基準が施行されました。地震津波への備えに従来より厳しい安全基準が設けられました。これに合格して再稼働にこぎ着けたのは、大飯(関西電力)3・4号機、高浜(関西電力)3・4号機、玄海九州電力)3・4号機、川内(九州電力)1・2号機、伊方(四国電力)3号機です。これらは福島第一原発とはタイプの異なる「加圧水型」です。

 福島第一と同じ「沸騰水型」でも新基準に合格している原発が4つあります。東海第二もこの「沸騰水型」。かつ福島事故後に原則40年という運転期間を過ぎた「老朽原発」です。規制委員会は最長20年の延長を認めていますが、難題山積みの原発

 今回の判決では、避難計画や防災体制の不備を理由として運転禁止命令が出されました。常識的に考えれば、当たり前の判断だと思います。でもそういう判決が、なかなか出ない。女性裁判長はある意味、色々なしがらみから自由に判断が出来るとも思います。司法の真っ当さを感じた、ちょっとほっとした判決でした。

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   3月19日のネモフィラ。こういう風景が守られますように!

物語の世界

 物語の世界ってどこにあるんだろう? これは時折気になる問いです。

 「ウチの娘は彼氏ができない」(北川悦吏子作)が終わりました。菅野美穂主演というので、何となく見始めて、脚本北川悦吏子と知って、納得。言葉の軽やかさと環境設定の面白さ、出てくる人たちの関係の暖かさに見続け、最終回。水無瀬碧(菅野美穂)の超高級マンションの部屋と近所のたい焼きや「おだや」の居間のアンバランスさ。現実と夢の世界を行き来している感じでした。アニメオタクの娘空と隠れオタク光の関係もよかったです。

 評価は割れているようで、つまらないという感想と終わってしまって「ウチカレロス」というファンもいます。

 最終回で印象に残っている碧の言葉。「このままこの時、時の中に居たいなぁ。なんで人生って前に前に進むんだろう。‥‥‥この今っていう時の中に居たいなぁ。ずっと居たいなぁ」。終わコン(作家としては飽きられてしまった、流行遅れになった商品)だと自分のことを思っていたという碧が、編集者橘漱石に言う言葉。「でも私は人間だ。心を持つ。心は動く。そして言葉が出てくる。その言葉は、物語は、また誰かの心を打つかもしれない。私は人間だから書き続ける。それを君が気づかせてくれた」。ウーン、北川悦吏子、さすが。

 物語りの世界って、どこにあるのでしょうか。映像化された画面の中、文字化された本の中? それを読んだリ見たりしている人の「心の中」? 演じている人たちはその世界を共同で作っている訳です。ストーリーは出来ているのですが、演じながらその世界は少しずつ変わります。現実の世界も共同で世界を作っていることに変わりはありません。即興演劇の場合、台本もない。

 私たちの世界を分けて考えると、直接体験の世界、間接体験(伝聞)の世界、想像の世界になると思います。物語の世界は想像の世界に分類できると思います。しかし、その世界を演じたり、演じられたものを見ているとき、それは直接体験の世界でもあります。

 それが物語りであることを、私たちはどれほど心を動かされていても、「客観的現実」ではないことを知っています。その違いはどこから来るのか。存在者の存在の時間性ということと関わるのではないかと思います。物語は超時間的なものです。

 もっとも時間に関しては、時間とは記憶に過ぎないという理論も出ているようです。「ブロック宇宙論」と「現在主義」という理論が二人の物理学者から出されているとか。「ブロック宇宙論」では、時間は人間が生み出した幻想にすぎない、と言われるようです。「現在主義」でも時間は記憶に過ぎないのですが、現在の特権性が主張されているとか。バートランド・ラッセルの思考実験「世界5分前仮説」と同じだと言われます。

 どちらも、流れる時間というのは、主観的体験であって、客観的実在の時間ではない、それは証明不可能ということらしいです。もっともこの主観は、個人的・経験的な意識主体ではなく、経験を可能にする意識の本質構造としての超越論的主観ですが。

 この考え方、まさにカントの主観の感性の形式としての時間と空間、という説を思い起こさせます。カントの場合は、コペルニクス的転回で、発想を変えれば理性のアンチノミーは回避できる、ということでした。

 物語りの世界ってどこにあるのだろうから、大分話は外れました。

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    木苺、ユリ、スプレーカーネーション、メリー(3月17日作)    

共感と道徳

 ポール・ブルームの『反共感論』を読み終えました。彼は道徳指針としての「共感」は弊害の方が大きいと言っていますが、共感全部を否定しているわけではありません。さらには最後で、「人生には道徳以上のものがある」「共感は喜びの大きな源泉になりえる」と書いています。私が題名に驚かされてこの本を手に取ったというのは、出版社や著者の「思惑」に嵌ったということでしょう。でも、内容としては、妥当な見解だと思いました。ポール・ブルームは道徳における感情の役割を否定しているわけではありません。「思いやり(compassion)」や他者への配慮・気遣いのような、より距離を置いた感情や他者に対する敬意、欲望をコントロールする能力などが、善い行いには重要だと考えています。

 しかし、では私たちを道徳的に、特に利他的行動に動機づけるものは何なのかは、問題として残ります。私たちを行動へと動かすものは、感情の力が大きいと思いますが、道徳の場合、それはどのような感情なのでしょうか。カントは、道徳的法則への尊敬の感情から行為する義務が、道徳的行動だと言います。

 カントは義務を完全義務と不完全義務の2つに分け、さらにそれぞれを内的、外的と2分しています。完全義務とは、やって当然、やらなければ批判されるものです。不完全義務とは、やらなくても批判されないが、やれば褒められるものです。この辺りの完全と不完全は、義務の本来の在り方との関係を表現しています。

 さらに完全義務は内的完全義務と外的完全義務に分かれます。内的完全義務の例としてカントが挙げているのは、自殺の禁止、自己の生命の尊重、自愛の本来の在り方を全うせよ、という命令です。外的完全義務の例は、自愛や自利ゆえに他者を欺くこと(詐欺や虚言)の禁止です。孔子の「己の欲せざる所、人に施すこと勿(な)かれ」(論語』「衛霊公第十五 24」)はこれに当たると思います。完全義務に関しては、社会生活上必要なものであり、欲求のコントロールに関わるものです。

 次に内的不完全義務。これは、自分の能力の開発を命じます。外的不完全義務は、他者を援助する命令です。後者は、イエス・キリストの山上の垂訓「あなたたちが人にしてもらいたいと思うことを、人にもしてやりなさい」に当たると思います。

 完全義務も難しいですが、それ以上に不完全義務の遂行は難しい。というのは、不完全義務の何を選択するかをどうやって決めたらいいのか。他者や社会に対する責任行動、よりよい世界にするための社会的貢献活動などは、ありすぎて選べません。そういうときに、「共感」は一歩を踏み出す大きな手掛かりになります。

 ポール・ブルームも、「善きことを行うよう人々を動機づけるために戦略的に動員できることに疑う余地はない」(58頁)、「共感は世界をよりよい場所にしようとする親切心を動機づけることができる」(289頁)と言います。問題は、共感がスポットライト的な性質を持ち、バイアスの影響を受けやすくなる。また、数的感覚を欠くということでしょう。身近な人の身に起こったことの方が、アフリカで飢えている2億を超える人たちの問題より痛切に感じられます。バランスを欠いて公正さを失したり、バイアスの問題に無自覚でいてはいけないということでしょう。

 社会活動をする人たちに時折感じるのが、この無自覚性。共感から始まる行動は、スポットライト性を持つので、バイアスがかかりやすいと言われます。共感の経験に関与する脳領域は、敵か味方か、自集団か相手集団かの区別に敏感だそうです。例えば、「自民党の誰それが」「共産党の誰それが」で、その後の行動や発言以前に、「その誰それ」へのプラス評価やマイナス評価がある程度決まっている、というような。

 もう一つ、ポール・ブルームは情動的共感に駆り立てられた人に及ぼす負の影響を指摘します。いわゆる「燃え尽き症候群」の問題です。共感と思いやりの差異に関しては、神経科学的にも研究がなされています。仏僧で神経科学者のマチウ・リーカルを被験者としたfMRI実験で、苦難の状況にある人々に思いやりの瞑想をしてもらうと、共感による苦痛の共有をつかさどる脳領域の活性化が起こらなかったそうです。次に、共感を覚えた状態に身を置いてもらうと、彼の脳は、他の非瞑想者が他者の痛みについて考えるよう求められた時の脳と同じような活性化を示したそうです。のちに彼は次のように述べています。

「共感による共有は、(‥‥)私にはただちに耐え難いものになりました。燃え尽きたかのごとく、情動的に消耗したように感じられたのです」(171頁) 

 共感の訓練をすると、島皮質や前帯状皮質が活性化し、思いやりの訓練では、内側眼窩前頭皮質や腹側線条体など他の脳領域が活性化されるそうです 。内側前頭前皮質はメンタライジング(他人の心の状態を推測する)に関与するとも言われています。いわゆる認知的共感の領野です。

「共感とは対照的に、思いやりは他者の苦しみの共有を意味しない。そうではなく、それは他者に対する暖かさ、配慮、気づかい、そして他者の福祉を向上させようとする強い動機によって特徴づけられる。思いやりは他者に向けられた感情であり、他者とともに感じることではない」(170頁)

 「なぜ人は助けるのか」の問題は、「共感」ゆえというより、人間のもっと内発的な発露(現存在の気づかい)のようですが 、社会的レベルになったとき、援助の対象をどうやって決めるのか、その問題は残ったままです。 

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                 3月6日中根吉田神社境内から

共感の必要性?

 今日は母の受診に付き添いました。帰りに、弘道館鹿島神社の梅を見ながら、車の中でおにぎりを頬張りました。この季節、梅があちこちで咲いています。こぶしも咲き始めています。

 『反共感論 社会はいかに判断を誤るか』(白揚社)を4分の3くらいまで読みました。ポイントは、共感を他者の感情の反映(ミラーリング)と定義して、認知的共感とは区別される情動的共感と捉え、その弊害を論じているということです。概ね、私自身の考え方と重なるなぁと思いながら読んでいます。

 著者のポール・ブルームは、共感よりも思いやりや配慮を求めています。共感の持つスポットライト性やバイアスの影響を受けやすいこと、数的感覚を欠く点などが指摘されています。また、共感を経験する人に与える負の効果として、「燃え尽き症候群」も言われています。プライベートな領域でも過度の共感はうまく機能しないとも。そして道徳的問題とはバランスの問題でもあると言われます。実感としてよく分かります。

 誰もが直面するもっとも困難な道徳的問題は、適正なバランスを保つことにある。どれくらいの金銭と時間(と注意力と情動的エネルギー)を自分自身、身内、赤の他人のために使うべきなのか?     (199頁)

 ブルームは共感に否定的ですが、感情的関りを否定しているわけではありません。思いやりや配慮は、共感なしに発揮されると主張します。道徳を共感にもとづかせることに懐疑的なわけです。カント的な道徳律を称揚するのかどうか。最終章は「理性の時代」になっています。もう少しで読み終わります。

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              弘道館鹿島神社から旧県庁を眺めて

子どもの絵

 子どもの絵って、どうやって描いているのだろう、と思います。絵本の影響なのでしょうか。今日、たまたま見た小学一年生が書いた人の顔を見て、家の子が幼稚園の年長さんか小学校の低学年で描いた時の絵を思い出して探しました。

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         子どもが私を描いた絵(20年以上前の私)

 今日見た絵も、同じような書き方でした。これって見たもののイメージを描いているわけですよね。いわゆる写生ではないです。今、私が誰かを描くとしてどうするか? 写真を参考にして描くかな。子どもたちが描く絵は、感覚体験を最も素朴に表現しているということでしょうか? 絵本の絵って、どこか同じ描き方だなぁと思います。

 フッサールの「意識の志向性」との関りで気になっています。意識の志向性とは、私たちの意識がどういう風にものを把握しているのか、その仕組みを言っていると言ったらいいでしょうか。「現出と現出者」という形で、私たちの意識は何かを捉えます。すべて意識の中で起こっていることです。私たちは、この意識の外へは出ることは出来ません。つまり、意識の中でどうやって外=超越を妥当(確信)するのか。ここで知覚が重要なポイントになります。

 私たちは何かを見ているとき、何を見ているのか。絵に描いてみようとすると、ものの形でも人物でもとても難しいです。私たちは、意識に現れているある一面的な、断片的な感覚を同時的に意識の中で構成して、それが何かを知覚(判断)します。バラだとかリンゴだとか、〇〇さんの顔だと。ただ感覚するものは、例えば、長方形のテーブルが見える位置によって平行四辺形だったりするように、私たちの知覚(判断)するのとは異なっています。

 「現出」というのは感覚しているもの・ことで、「現出者」というのは知覚しているもの・ことです。この両者は切り離せませんが、別のものです。現出として現出者は常に意識に現れます。同じ現出者が多様に現出します。現出(平行四辺形の現れなど)は現出者(テーブル)として知覚される。こういう意識の在り方を、フッサールは「意識の志向性」と言ったようです。

 子どもの絵は、テーブルを描くと長方形になります。でもどことなく特徴をとらえています。ということは、テーブルとはこういうものという知覚像(言葉)があって、それにテーブルの感覚されたものを描きこんでいるのでしょうか。

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            梅の木の下で休むおじさん

終活

 少し前から、年上の友人が「終活している」と言っていました。年賀状で、「今年が最後」という連絡をいただくことも増えました。そうかぁ、身の回りの整理しなければと思うようにはなっています。

 「終活」という言葉は、2009年に『週刊朝日』が連載を組んで以来、広く浸透したようです。私の場合は、身の回りの物品整理の段階ですが、いやぁ、確かにこれを残されたら、整理は大変。残されたものは、まぁ、どんどん捨てられるんだろうなぁ、とは思います。

 女性学を教えていたころの新聞記事の切り抜きを整理、というかほとんど捨てました。1990年代の日経新聞の記事が結構大量に在りました。鹿島敬さんが、編集局生活家庭部長をしていた頃でしょうか、女性労働問題をかなり取り上げていました。

 新聞記事の変遷も整理してみると面白いでしょうね。私が捨てられなくて残したのは、『フロイスの日本覚書』「第Ⅱ章 女声、その風采と衣服に関して」(中公新書)の部分のコピー。ヨーロッパの女性と日本の女性を比較する形で、書かれています。例えば、

1.ヨーロッパでは、未婚女性の最高の栄誉と財産は貞操であり、純潔が犯されないことである。日本の女性は処女の純潔をなんら重んじない。それを欠いても、栄誉も結婚(する資格)も失いはしない。

30.ヨーロッパでは夫婦間において財産は共有である。日本では、各々が自分のわけまえを所有しており、ときには妻が夫に高利で貸し付ける。

 ルイス・フロイスは、1532年、ポルトガルの首都リスボンに生まれています。彼は16歳でイエズス会に入会し、インドへ向かいました。1563年に来日して、信長の寵愛を受け、1585年に『日本覚書』を執筆しています。31歳で日本に来て、22年後に本を書いています。日本の女性に関する記述は、かなり正確ではないかと思いますが、ただその観察対象の範囲は限定されていたかもしれません。ヨーロッパと比較する形での叙述形式ですが、どうもヨーロッパの風習に関しては、16歳でインドへ派遣されているので、どの程度信憑性があるのか疑問視されています。

 読んでいる分には、ヨーロッパの女性より日本の女性の立場の強さが印象に残ります。

 こんなことしているので、終活の身辺整理は時間がかかりますね。

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      4月開校予定の小中一貫校「ひたちなか市立美乃浜学園

人間の尊厳と自立5.人間の尊厳の根拠

 「人間の尊厳と自立」という科目の成立を見てみると、法律に記載された(誠実義務)こと、というのが大きいようです。ではなぜそのような条文が出てきたのか。その背景には、施設における拘束等の問題もあるのではないかと思われます。これはまた別に考えていきたいと思います。それはそれとして、なぜ人間に尊厳があるのか、その根拠はどこにあるのか、は今一つはっきりしません。前提として人間の尊厳保持が、提示されています。

 なぜそのようなことに拘るのか。この問題は、「パーソン論」の問題とも重なってきます。パスカルは「人間は一本の葦にすぎない、自然の中でもいちばん弱いものだ。だが、それは考える葦である」(ラフュマ版200)として、人間の尊厳を考えることの中に見出しました。西洋思想の中で理性(考える能力)は、人間の証しとして捉えられてきたと言っていいと思います。カントは人格(自由意志)に人間の尊厳の根拠を見い出しました。カントの人格とは、理性によって道徳法則を自ら選択して、自律的・自立的に行為する存在のことです。

 では、これが、欠けていると思われる状態はどう捉えられるのか。さらに技術の進歩の中で、胚の問題や臓器移植等をどう扱うのか、ということも出てきています。出生後の人間を対象に限ったとしても、福祉を最も必要とする存在ほど、この人間の尊厳の規定からは外れます。幼児、老人(特に認知症状を呈する人)、障害者など。

 私の手元の教科書『新・介護福祉士養成講座1 人間の理解』(中央法規)では、生きていく中で、介護職の支援を受けることにもなるが、それは人間関係を基盤にする、というようなことで始まっています。そして次のように続きます。

 人間関係の構築には,現在の生活状況の理解はもとより,人間としての尊厳が保持され,社会の人々との人間的なコミュニケーションのもと,自立した豊かな生活を営みたいという人間の姿の真の理解から始まります。 (2頁)

  そして、その人間存在の尊さは理論や知識でなく、直接に感じ取るものだと言われています。しかしながら、この直接に感じ取るとはどのようなことを言っているのでしょうか。通常の「感じ取ること」を根拠にすることには危うさがあります。

 かつて、ある教え子が実習に出て、ぽろっと漏らした言葉があります。「先生、生きていても仕方ない人っていますよね」と。

 その学生は、寝たきりで自分では食事もとれない、言葉を発することもない利用者さんの姿に、ある意味衝撃を受けたようでした。人間の悲惨な状況に対面したとき、「生命への畏敬」という言葉がどれだけ響くのか。それを感じ取ることができないことを責めることは、無意味だと思います。

 私にもその言葉はショックでした。その学生には「安楽死を含めて生きること、死ぬことを考えることは必要だけど、現場では生きることの持つ可能性を信じてないと辛いよ」というようなことを言った気がします。

 倫理の言葉はお題目になっては意味がありません。しかし、「倫理の言葉に私たちの心が追い付かないこともある」というようなことも授業で言ったことを覚えています。(他人の感情に同調するという意味での)共感を倫理の基礎にはおけない、という点に私は同意しています。「人間の尊厳」の根拠は、言語化される必要があると思っています。そして、直接感じ取る、ということの意味がもっと明確にされる必要があるとも思います。

 現象学の視点を使うことで扱える問題なのかどうか。直接経験(主観的なもの)がもとになって私たちの客観世界が形成されるとして、この直接経験を知覚経験を超え出る領域にまで言えるのかどうか。生きている姿を直接「感じ取る」という直接経験はあるのでしょうか。この「感じ取る」は、「嫌なものを感じ取る」とか、「恐ろしいものを感じ取る」というような、すでに評価的なものを含んでいるのではないでしょうか。

 もう一つ、法律の条文では、人間の尊厳という表現が出てきていないことも注意点です。「自己の尊厳」(世界人権宣言)、「個人として尊重される」(日本国憲法第13条)、「個人の尊厳の保持」(社会福祉法)という表現で、人間の尊厳という言い方は見当たりません。しかし、日本国憲法は人間の尊厳という表現を使ってはいませんが、人間の尊厳を根拠としないと「基本的人権」は言えません。ここで語られている「個人」とは、これら基本的人権の保持者であり、その意味では尊厳を持つ人間としての個人と捉えられます。勝手気ままな個人の尊重や尊厳を意味するわけではないのです(この法律的解釈の部分は山崎将文「福祉における人間の尊厳―憲法学からのアプローチ―」(『憲法論叢18号』)を参考にさせていただきました)。

h-miya@concerto.plala.or.jp