宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

物語の世界

 物語の世界ってどこにあるんだろう? これは時折気になる問いです。

 「ウチの娘は彼氏ができない」(北川悦吏子作)が終わりました。菅野美穂主演というので、何となく見始めて、脚本北川悦吏子と知って、納得。言葉の軽やかさと環境設定の面白さ、出てくる人たちの関係の暖かさに見続け、最終回。水無瀬碧(菅野美穂)の超高級マンションの部屋と近所のたい焼きや「おだや」の居間のアンバランスさ。現実と夢の世界を行き来している感じでした。アニメオタクの娘空と隠れオタク光の関係もよかったです。

 評価は割れているようで、つまらないという感想と終わってしまって「ウチカレロス」というファンもいます。

 最終回で印象に残っている碧の言葉。「このままこの時、時の中に居たいなぁ。なんで人生って前に前に進むんだろう。‥‥‥この今っていう時の中に居たいなぁ。ずっと居たいなぁ」。終わコン(作家としては飽きられてしまった、流行遅れになった商品)だと自分のことを思っていたという碧が、編集者橘漱石に言う言葉。「でも私は人間だ。心を持つ。心は動く。そして言葉が出てくる。その言葉は、物語は、また誰かの心を打つかもしれない。私は人間だから書き続ける。それを君が気づかせてくれた」。ウーン、北川悦吏子、さすが。

 物語りの世界って、どこにあるのでしょうか。映像化された画面の中、文字化された本の中? それを読んだリ見たりしている人の「心の中」? 演じている人たちはその世界を共同で作っている訳です。ストーリーは出来ているのですが、演じながらその世界は少しずつ変わります。現実の世界も共同で世界を作っていることに変わりはありません。即興演劇の場合、台本もない。

 私たちの世界を分けて考えると、直接体験の世界、間接体験(伝聞)の世界、想像の世界になると思います。物語の世界は想像の世界に分類できると思います。しかし、その世界を演じたり、演じられたものを見ているとき、それは直接体験の世界でもあります。

 それが物語りであることを、私たちはどれほど心を動かされていても、「客観的現実」ではないことを知っています。その違いはどこから来るのか。存在者の存在の時間性ということと関わるのではないかと思います。物語は超時間的なものです。

 もっとも時間に関しては、時間とは記憶に過ぎないという理論も出ているようです。「ブロック宇宙論」と「現在主義」という理論が二人の物理学者から出されているとか。「ブロック宇宙論」では、時間は人間が生み出した幻想にすぎない、と言われるようです。「現在主義」でも時間は記憶に過ぎないのですが、現在の特権性が主張されているとか。バートランド・ラッセルの思考実験「世界5分前仮説」と同じだと言われます。

 どちらも、流れる時間というのは、主観的体験であって、客観的実在の時間ではない、それは証明不可能ということらしいです。もっともこの主観は、個人的・経験的な意識主体ではなく、経験を可能にする意識の本質構造としての超越論的主観ですが。

 この考え方、まさにカントの主観の感性の形式としての時間と空間、という説を思い起こさせます。カントの場合は、コペルニクス的転回で、発想を変えれば理性のアンチノミーは回避できる、ということでした。

 物語りの世界ってどこにあるのだろうから、大分話は外れました。

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    木苺、ユリ、スプレーカーネーション、メリー(3月17日作)    

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