直接経験の領野(マッハ的光景)を、フッサールは「超越論的主観性」と言っています。つまり、私たちが最も直接的に具体的に経験している光景そのもののことで、客観科学の基礎になるものです。マッハの絵のことです。しかし、この意識の直接経験を客観科学の基礎に置くという現象学の知見には、「盲視」の症例がその限定性を明らかにしています。
「盲視」とは(主観的には)「見えていない」が、(客観的には)「見えている」と言われる現象です。脳の損傷で盲目となっている視野に何かが提示されたとき、本人は光点が見えていないと言いますが、光点の位置を当てることができるという乖離現象が起こります。上下に動かしてどちらに動いている気がするかを聞くと、90%くらいの確率で正解するようです。偶然なら上下ですから50%です。明らかに「見えている」と言えるようです。これは、脳の中で視覚をつかさどる部位が一つではないことと関わっていると考えられています。
脳の視覚野はⅤ1野、Ⅴ2野、Ⅴ3野、Ⅴ4野、IT野、Ⅴ5野などからなります。網膜から入った視覚刺激が視床から最初に入力される部位がⅤ1野です。何らかの原因でⅤ1野の機能を失った人が、それでも動きを感受するという不思議な現象。これは網膜からⅤ1野を経由しないで、上丘と呼ばれる部位を通ってⅤ5野(方向を知覚)に至るルートがあることからきています。
デカルトは外の世界を取り戻すのに神様を経由しました。現象学は、意識の自明な知覚現象から、外の世界を妥当するという道筋を付けました。この画期的な方法は、しかしながら、オールマイティではなかった。客観性の基礎に意識の主観的経験を置くという現象学の発想の限定性とも言えます。
18日に生けたお花。クルクマ、縞ガマ、ベッチーズブルー(瑠璃玉アザミ)、ソリダコ