宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

EBM(根拠に基づく医療)

 EBM(evidence-based medicine)、日本語で「根拠に基づく医療」という言葉がありますが、どういう風に理解されているのでしょうか。一般的には、evidence(根拠)を科学的根拠と受け取っているようです。では、科学的根拠とは何を言うのか。客観的であって主観的ではない理由づけ、という意味合いでしょうか。

 先日、授業で、近代的人間観の特質としての「内在主義」と「構成主義」の話をしました。主観的確実性に基づく認識態度(内在主義)が自然への介入的認識観である、構成主義的認識観へと展開して近代科学観を打ち立てた、という辺りで、学生から疑問が出ました。科学というのは客観的なものであり、それがなぜ主観的なのか、その辺りが混乱したというのです。そして医療でEBMが言われるとき、それは客観的であって主観的ではないということですよね、という質問でした。

 まず「内在主義」とは、対象に向けられていた認識が認識主観に向きを変えることで確実なもの、認識の確実性の底板を見い出したということです。デカルトに代表されますが、あらゆるものの存在を疑っていても、その瞬間の疑う「私」の存在は疑い得ない、「私は考える、ゆえに私は存在する」という立場です。リチャード・ローティは、これを「心の発明」と言いました。真理の唯一の尺度を、認識主観に見出した立場とも言えます。

 伝統的な階層秩序の崩壊によって無限の宇宙のなかに放り出された人間は、考える主観によって立つことで、新たな確実性の地平を築き始めました。主観にとっての確実性を真理規準として知を構築していく姿勢は、羅針盤や印刷術、火薬という技術の進歩を支える技術的合理性への信頼と手を結んでいきます。機械的技術によって新たな世界が開かれるという確信が生まれました。そのためには、自然の法則性を知る必要があります。自然を知ることで自然を支配し、人間の福祉に役立てることができるという確信です。知りたいことは人間の必要性から発します。自然を知るために仮説を立て、実験的に自然に介入します。

 この実験的方法に基づく思惟態度を哲学的に捉えたのが、イマヌエル・カント(1724-1804)でした。いわゆる「コペルニクス的転回」と言われる思想で、「構成主義的」認識観の成立です。

  「これまで人は、すべて私たちの認識は対象に従わなければならないと想定した」(イマヌエル・カント、原佑訳『純粋理性批判(上)』第2版序文、平凡社ライブラリー

<ただしこのような見方では、認識の対象に不可欠の時間と空間に関して、理性が自己矛盾に陥ってしまう。逆に時間と空間を主観の性質と想定すると自己矛盾を回避できる。それならば(石川文康『カント入門』79頁 筆者要約)>

 「対象が私たちの認識に従わなければならないと私たちが想定することで、もっとうまくゆかないかどうかを、いちどこころみてみたらどうであろう」(カント『純粋理性批判(上)』第2版序文) 

 「内在主義」は主客二元論という問題を生みだし、フッサールに始まる現象学はこの問題を克服する試みでした。「構成主義」は自己に関する分裂(構成する側の認識主観としての私と認識される対象としての私の分裂)を生み出しました。これを乗り越えようという試みは、ニーチェの思想に見られます。しかし、ニーチェは「すべては解釈である」「『いったい解釈するのは誰か?』と問うてはならない」と語り、主体が消えていくという現代思想のテーマに道筋をつけました。

 現象学は、個々の経験を可能にする場そのものとしての「私」、認識が成立する基盤である「意識主観」の経験を直接経験と間接経験(伝聞など)に分けることを通して、自明性のレベルの差を明らかにしました。私たちは、自分の意識主観のうちに、自分の外側にあるものを確信せざるを得ない条件を持っています。それが知覚直観と本質直観と言われます。知覚には錯覚がありますが、しかし錯覚を訂正するものもまた知覚なのです。本質直観とは「それが何であるか、(例えば、見えているものをコップという)意味」で捉えることです。これらは、私たちにとっては自由にならないものです。見たくなくても見えるし、瞬間にその意味を捉えます。

 この意味での主観とは、経験を超え、経験を可能にするものとしての「超越論的主観」なのです。通常言われる恣意的という意味での主観的とは異なっています。この辺り混乱して当然なのですが。

 EBM(根拠に基づく医療)は、カナダのマックマスター大学でディビット・サケットやゴードン・ガイヤーたちが掲げたスローガンで、1990年代初頭に命名されたと言われます。治療法の選択根拠を生理学的原則・知識の重視から、臨床結果で得られた裏付けや証拠を根拠とする医術に転換しようということ。「病気を見て病人を見ない」という言葉がありますが、あくまで個々の患者の状態、年齢・性別・既往歴などをベースに治療法を選ぶという、当たり前と言えば当たり前の動きです。その背景には、医学情報のデータベース化の進歩や疫学・統計手法の進歩があります。

 科学的根拠というと、主観的でない客観的な理由づけ、と常識的には受け取ります。しかし、認識における超越論的主観性と現象学の見出した生活世界の根源性とを考えるなら、科学的客観性とは、仮説・実験検証のサイクルであり、絶えず更新されていくものです。その出発点は「私(主観)」の観察であり、仮説・実験の検証をするのも「私(主観)」の観察と言えます。

f:id:miyauchi135:20200603153318j:plain

         6月1日夕方の中根上野(かみの)公園

h-miya@concerto.plala.or.jp