宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

EBMの「エビデンス」とは?

 昨日は風は少しありましたが、暖かでした。今日はもっと気温が上がりました。今週の半ば以降はまた冬の寒さがぶり返し、風邪をひきやすいので気を付けてくださいと、昨日の天気予報で言っていました。

 さて、このところ考えていた科学的ということは、EBMの問題とも繋がっています。EBM(evidence-based medicine)は通常「根拠に基づく医療」と訳されます。この根拠は科学的根拠ですが、従来の医療は生理学的知見や医者の経験に基づいていました。これらは科学的根拠ではないのでしょうか。ここがずっと引っかかっていました。

 私たちは科学的というと、客観的で主観的思い込みではないと考えていると思います。この主観的と客観的という言葉自体にも注意が必要です。まず主観に関してもレベルがありますが、客観に関してもレベルがある。私たちがものを考えたり想像したり、見たり、聞いたり、つまり知覚するとき、私たちは主観を離れることは出来ません。その内容と区別して、働きそのものとしての主観は、まず確かに在ります。ここからしか私たちの「知る」という行為は始まりません。「我思う、ゆえに我在り」です。

 では、私たちの知ることの確実さの違いはどこから来るのか。現象学が問題にしたのが、この意識主観の経験の自明性のレベルでした。自明性の差が出てくるのは、直接経験か間接経験(伝聞・情報)かに寄ります。学問はすべて間接経験を含んでいます。その意味であらゆる学問は、疑うことが可能な部分を含むということです。

 「知ること」の基盤は「主観」です。主観と切り離された認識はあり得ない以上、認識の客観性にもレベルがあると言えます。科学的理論は客観的と通常思われています。しかし、例えば、同じ現象を理性的に観察(直接経験)しても、そこから導かれる仮説は異なります。その格好の例が、燃焼に関するフロギストン説と酸素説の対立です。観察と仮説との間には因果関係はない、観察する人の信念がその因果関係を提供すると考えられます。カントは『純粋理性批判』第2版序文で「コペルニクス的転回」に言及しています。

コペルニクスは、全星群が観察者のまわりを回転すると想定したのでは、天体の運行をうまく説明することができなかったので、観察者を回転させ、これに反して星を静止させたなら、もっとうまくゆかないかどうかを、こころみたのである。 (カント/原佑訳『純粋理性批判(上)』平凡社ライブラリー、48頁

  自然を知るために、仮説を立てて、実験的に自然に介入していく姿勢は、人間の側の必要性から始まります。自然そのものをありのままに認識するのが客観性という考え方は、近代において、人間の側の介入の仕方によって自然が見せる姿は異なる、と変わりました。カントは先の引用の少し前の部分で、「理性は、理性自身がその企画にしたがって産み出したものだけを洞察する」(前掲書、44頁)と言っています。

 EBMエビデンスのレベルというのも、その文脈で考えれば分かり易いです。エビデンスは臨床結果で得られた裏付けや証拠を根拠とする、ということです。そしてそれにはレベルがあります。「根拠」でもその信ぴょう性に強弱はありますが、臨床結果の知見重視の側面とランダム化比較試験や統計手法によって出来るだけバイアスを排していく信憑性のレベル付けの手法をいうときには、「エビデンス」という言葉を使った方が明確です。

 19世紀の科学では、「再現性」が重視されていました。それが20世紀後半の推計統計学の導入によって、医学・薬学・心理学・経済学など、複雑性や複合性を内包していて再現性が得にくい分野にも、科学的手法が使えるようになったようです。

 というわけで、EBMは「根拠に基づく医療」と訳すよりも、「エビデンスに基づく医療」とした方が誤解が少ないだろうと思われます。

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          2021年2月21日 一気に気温が上がって梅満開(千葉県)

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