宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

主観的な人ほど、幸せ?

 今日も日中は暖かでした。昨日、肩のリハビリをして、今日は少し痛みがあります。痛み止めを飲んでないせいもあるのかも。

 ところで、幸せって、どういうことでしょう。あまり考えない、という人のほうが多いのかもしれません。毎日、それどころではない、ということでしょうか。毎日が回っていれば、それはそれで充実しているということかもしれません。逆に不幸って? と言われれば、自分が避けたいことは幾つか上がってくるでしょう。体の具合が悪いのは嫌だし、毎日の生活にかかるお金がないのも困る。独りぼっちも寂しいし、働ける年齢であれば仕事がないのはつらい、というように。

 どういう人が、あるいはどういう状態が幸せなのか、いきなりですが、主観的・客観的という点から考えてみます。主観的な人は幸せな人なのでしょうか。主観はsubjectの訳ですが、行動における主体という意味にも使われます。認識において主観的は独りよがりの思い込み的意味合いで、批判的に使われますが、行動において主体的は意志的・自律的行動の意味合いで、肯定的に使われます。主体的な人は充実度が高くなると考えられます。自分で選んで行動に移すわけですから。では主観的な人は?

 『広辞苑』によると主観とは、「認識・行為・評価などを行う、意識を持つ自我」、つまり意識主体。主観的とは通常「自分一人の考え方や感じ方によるさま」のことです。しかし、歴史的・社会的・個性的な個別的主観と、カント以降の認識論で認識の客観性の根拠として論理的に想定される先験的・形式的主観とは区別されます。その認識の在り方が主観的であれ客観的であれ、認識が成立する基盤は意識主観。この意識主観を規定しようとした試みが、カント以降の認識論における先験的・形式的主観(超越論的主観)の問題でした。

 しかし、この超越論的主観性と通常の「私」という語り口一般(超越論的自我)は、区別されます。ある主体が、自分自身を自己として意識しうるためには、単に世界に意味付与的に関わるだけではなく、さらに自分を振り返り、自分の身に起こっていることを、自己という一つの中心に帰属させる術を獲得する必要があるわけです(滝浦静雄)。

 ここに主観的と恣意的を区別する示唆を見ることができると言えます。主観的判断の恣意性の問題は、「自我」性のレベルで生じます。意識の統一作用の結果である自己同一性レベルが関わると考えられます。

 通常の特定の認識内容の正当性・妥当性をめぐる議論において問われる主観的か客観的かの問題は、ここを問題にしていると言えます。私たちは、何かを意識するとき、主観的でしかありえないのですが、この自我性のレベルでどのくらい客観的であるかどうかで、恣意性の度合いが異なってくると考えられます。

 でもどこまで行っても、恣意性をゼロにはできません。そして幸福感を感じる度合いは、恣意的な人ほど高いのかもしれません。客観性をより無視しているわけですから。でも人生の味わい、というのは「ハッとする」気づきと落ち込みとも関わっている気もします。アガサ・クリスティ『春にして君を離れ』だったと思いますが、独りよがりのヒロイン像が、そう思わせます。

 では、客観性、客観的とはどういうことでしょうか。

f:id:miyauchi135:20181128190819j:plain

       11月27日に活けたクリスマスのお花です。 

h-miya@concerto.plala.or.jp