宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

歌の背後に広がるもの

 18日に、ニューイヤーコンサートと題して、第22回はまぎくカフェを開催しました。山本彩子さんの伸びやかな声と表現力を堪能しました。伴奏の忠和子さんも、『トロイメライ』を弾いてくれました。穏やかな調べに、保育園でお昼寝の時間に流れていた、という話を納得しました。

 1部の最後の2曲は圧巻でした。どちらもチャイコフスキー作曲で、『ただ憧れを知る人のみが』と『オルレアンの乙女 』より「そう、時はきた」でした。『ただ憧れを知る人のみが』は、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(1786年)第4部第11章に出てくる詩で、ミニヨンという少女が歌います。ミニヨンは幼い時にイタリアでさらわれ、サーカス団の歌姫として働かされていました。演劇修行中のヴィルヘルムはそのミニヨンを、サーカス団から買い取りました。

 この詩には、何人かの作曲家が曲をつけていますが、チャイコフスキーの曲が有名です。でも、なんと、シューベルトはこの同じ詩に6回曲をつけ、ベートーヴェンは4回作曲しています。チャイコフスキーは、ロシア語訳されたものに、曲をつけています。最初の出だしは次のようなものです。

Nur wer die Sehnsucht kennt      ただ憧れを知る人だけが、

Weiβ, was ich leide!                     私が何を悩んでいるかを知って います。

 シューベルトは歌曲という感じです。メンデルスゾーンシューマンも曲を付けています。ベートーヴェンの曲は、伸びやかな感じがしました。4曲中3曲はト短調なのですが。色々聞いていると、最後は訳が分からなくなりました。

 『オルレアンの少女』は、1878年から1879年にかけてチャイコフスキーが作曲したものです。原作はシラーの戯曲『オルレアンの少女』。題材は英仏百年戦争(1337-1453)でフランスを勝利に導いたジャンヌ・ダルク(1412頃-1431)です。シラーの原作では、ジャンヌ・ダルクは戦場で死にますが、チャイコフスキーのオペラでは、史実に忠実に、ルーアンで処刑されます。

 「そう、時はきた」は、16歳(1428年)で戦場に赴くジャンヌが、故郷との別れを歌う歌です。ジャンヌはフランス東部ドンレミに(土地を所有する)農夫の娘として生まれました。当時のドンレミは、フランスに対して素朴な忠誠心を持つ村だったようです。ジャンヌは、13歳の時に、「王太子シャルルをランスへ連れて行ってフランス王位に就かせよ」という神の声を聴いた、と伝えられています。そして16歳の時に、いよいよ旅立つ決意をします。最初はこう始まります。

そう 時は来た

天命にイオアンナは従わなければならない

  (ロシア語でジャンヌ)

だが なぜ心が恐れで塞がれるのか

苦しく 痛く 心はうずく

 

さようなら 永久に 故郷の丘よ 野よ

さようなら 平和な隠れ家の明るい谷よ

 使命感と故郷への愛着で引き裂かれる16歳の少女の想いが、歌いあげられ、聴くものの胸を打ちます。ジャンヌは、百年戦争の危機的状況で、戦況をひっくり返したヒロインとして、今もなおフランス人の心に訴えかけ続けていると言われます。

 百年戦争自体は、王位継承権に関するイングランド王家(プランタジネット家及びランカスター家)とフランス王家(ヴァロア家)の対立でした。この対立もずっと引っかかっていましたが、ヨーロッパの王家の婚姻関係から来ています。要は、ノルマン朝最後のイギリス王ヘンリー1世の跡取りが早世してしまったので、娘(マティルダ)が後継者に指名され、その娘婿がフランスの貴族(アンジュー伯ジョフロワ4世)だったということです。まぁ、色々ありますが、マティルダの息子であるアンジュー伯アンリが、ヘンリー2世となりプランタジネット家が成立します。このアンリは、アンジュー伯としてフランス内に広大な所領を持ったまま、イギリス国王に即位しました。このプランタジネット家の所領は代を重ねて、縮小していきます。そしてフランドル地方をめぐる対立、スコットランドをめぐる対立で緊張がマックスになり、終に、イギリス王(プランタジネット家)エドワード3世が、フランス王(ヴァロア家)フィリップ6世に対して挑戦状を送付(1337年11月1日)したのが、百年戦争の始まりです。

 要は王家の家同士の争い。どちらも根っこはフランス貴族同士。その対立に庶民の出のジャンヌが、なぜ命を懸けることになったのか。家同士の権力闘争が、そこに住む一般の人たちを巻き込んで、自分たちの郷土愛を刺激するものになったからのようですが、そこはまだ今一つ理解できていません。

 ところで、チャイコフスキー1840年に生まれ、1893年に亡くなっています。家系の出自はウクライナのようです。彼のお父さんは軍関係者ですし、祖先にも軍関係者が多かった。音楽家の家系ではないことは確かです。ただ、父親がフルートを吹き、母親がピアノを弾いて歌を歌うという音楽に溢れた家庭環境だったようです。彼の作品をそれほどよく知っているわけではありませんが、題材からはロシア的というより西洋文化を感じます。私たちはロシアも含めてヨーロッパと受け取っていますが、ロシアはヨーロッパでは文化的には辺境の地だった。フランスへの憧れは強かったと思います。チャイコフスキー家も、フランス人の家庭教師を雇っていて、チャイコフスキーは懐いていたようです。

 第2部は、『この道』、『メモリー』、『雨降りお月』、『紅葉』を、彩子さんの歌唱指導で歌いました。身体のほぐし方や、発声練習として母音法も教えていただき、音を聴きやすく発声する訓練も出来ました。

 第1部は格調高く。第2部は参加者のちょっと調子はずれの歌声も交じって、それを彩子さんの声がフォローしてくれていて、楽しかったです。そして、参加者の皆さんが、とても満足した様子で帰られたのが、嬉しかったです。

 一つの作品を通して、色々考えさせられるし、世界が広がります。試験のためではなく何かを知ろうとするのは、「なぜ」を刺激されるからですが、それは歌に心を動かされるから。『夕暮れに手をつなぐ』という北川悦吏子脚本のテレビドラマが始まりました。その中に、「ものを創るというのは、人を最も遠くに連れて行くものよ」(不正確ですが)というようなセリフがありました。時間の中で起きたことは、その時はどれほど人の心を鷲掴みにしようと、やがて忘れられていきます。それを人の記憶に留めるのは物語であり、歌であり、絵画であり、映画でしょう。史実記録は重要ですが、そこからだけでは、一般の人の心の中に「出来事」が生き続ける力は生まれません。「詩や美しさ、ロマンや愛は人間が生きるための糧だ」と『今を生きる』の中で、キーティングが言っていた言葉を思い出します。心は芸術を糧にする。だから芸術を通して「出来事」の記憶は紡がれていくのでしょう。 

          2023.1.18 那珂湊コミュニティセンターにて

h-miya@concerto.plala.or.jp