宮内寿子「おはなしのへや」

日々、思うこと。

子どもの絵

 子どもの絵って、どうやって描いているのだろう、と思います。絵本の影響なのでしょうか。今日、たまたま見た小学一年生が書いた人の顔を見て、家の子が幼稚園の年長さんか小学校の低学年で描いた時の絵を思い出して探しました。

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         子どもが私を描いた絵(20年以上前の私)

 今日見た絵も、同じような書き方でした。これって見たもののイメージを描いているわけですよね。いわゆる写生ではないです。今、私が誰かを描くとしてどうするか? 写真を参考にして描くかな。子どもたちが描く絵は、感覚体験を最も素朴に表現しているということでしょうか? 絵本の絵って、どこか同じ描き方だなぁと思います。

 フッサールの「意識の志向性」との関りで気になっています。意識の志向性とは、私たちの意識がどういう風にものを把握しているのか、その仕組みを言っていると言ったらいいでしょうか。「現出と現出者」という形で、私たちの意識は何かを捉えます。すべて意識の中で起こっていることです。私たちは、この意識の外へは出ることは出来ません。つまり、意識の中でどうやって外=超越を妥当(確信)するのか。ここで知覚が重要なポイントになります。

 私たちは何かを見ているとき、何を見ているのか。絵に描いてみようとすると、ものの形でも人物でもとても難しいです。私たちは、意識に現れているある一面的な、断片的な感覚を同時的に意識の中で構成して、それが何かを知覚(判断)します。バラだとかリンゴだとか、〇〇さんの顔だと。ただ感覚するものは、例えば、長方形のテーブルが見える位置によって平行四辺形だったりするように、私たちの知覚(判断)するのとは異なっています。

 「現出」というのは感覚しているもの・ことで、「現出者」というのは知覚しているもの・ことです。この両者は切り離せませんが、別のものです。現出として現出者は常に意識に現れます。同じ現出者が多様に現出します。現出(平行四辺形の現れなど)は現出者(テーブル)として知覚される。こういう意識の在り方を、フッサールは「意識の志向性」と言ったようです。

 子どもの絵は、テーブルを描くと長方形になります。でもどことなく特徴をとらえています。ということは、テーブルとはこういうものという知覚像(言葉)があって、それにテーブルの感覚されたものを描きこんでいるのでしょうか。

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            梅の木の下で休むおじさん

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